コピーライターという職業があるなんて夢にも思っていなかった16才の頃。母がある新聞記事を見つけこんなことを言った。ひとり言のようだった。「CMディレクターっちゅう人が自殺したんやってねぇ。資生堂とかの有名なコマーシャルをつくっとった人やったんやねぇ」杉山登志さんの訃報を知らせる記事だった。1973年師走。福岡県北九州市門司区の高校生の家では、テレビコマーシャルといえば小倉魚町銀天街ハラ家具のセールを知らせる3コマCMや、ばってん荒川の博多銘菓「にわかせんべい」などのCMがほとんどで、資生堂やサントリー、TOYOTAといった全国区の商品のCMはたまにしか流れなかった。
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『リッチでないのにリッチな世界など分かりません。
ハッピーでないのにハッピーな世界など描けません。
夢がないのに 夢を売ることなどは……とても……
嘘をついてもばれるものです』
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将来の職業のことなんて当然何にも考えていなかった高校生、中村禎少年に
「コマーシャルをつくるという仕事があるんだ」
ということと
「それは自殺してしまうほど真剣に悩むタイヘンな仕事なんだ」
という記憶だけはしっかりと刻まれました。
その記事のことを今でも憶えているというのも、
なにかの縁だったのかもしれません。
ただ「伝わる広告をつくりたい」と純粋に悩んだ、
お会いしたことのない、同じ広告屋の先輩を想う日。
(このブログに自分のプロフィールを書こうとしていて、ふと杉山登志さんの記事のことを思い出し、自分は何才だったのだろうかと調べてみたら1973年12月12日が命日だと知りました。40年前の記憶。合掌)