売却される築地本社ビル。最上階、展望室の喫茶室で遠くを眺めながらコピーを書いていた。
30才を過ぎた転校生は、なかなか電通に馴染めませんでした。岡田耕さんは「電通のクリエーティブに他の血を入れることで、化学変化を起こしたい」とおっしゃっていた。ボクはそれを『意訳』しすぎたのかもしれません。『電通のクリエーティブを変えたい。刺激を与えて欲しい』と言われたと勝手に思っていました。確かにそういう目的もあったと思いますが、とにかく『変えなくちゃ』と力み過ぎていたのかもしれません。
配属先の局会で今までの仕事をビデオで見てもらうとき、唖然とすることがありました。『中村さんは、コピーライターなのにテレビCMもつくられるそうです』と紹介されたのです。当時の電通は、コピーライターはグラフィックの仕事をする人、CMはCMプランナーの仕事、という空気だった。大丈夫か?この会社・・・と思ったものでした。サン・アドではコピーライター、アートディレクター、フィルム・ディレクターの3人いればキャンペーンがつくれました。演出家がワンビジュアルを提案したり、ADがコピーを出したり、コピーライターがコンテを描いたり。それぞれが自分の職業を軸足に、マーケッターや営業や他のジャンルの守備範囲にも動きながら企画をする。そういうスタイルでボクは育ちました。版下を自分の手でつくらないデザイナー、やたらと人数が多い会議、プレゼン直前に初めて顔を見せ、ダメ出しをする営業局長・・・。何もかもがサン・アドのやり方とは違っていました。
完全なスランプ。満足のいくものが何もつくれず、新人賞以来毎年掲載されていたコピー年鑑にも、ついに何も掲載されないという事態に。さすがにこれはショックでした。当時の親分は大島征夫さん。大島さんはなんとかボクにいい仕事をさせようとしてくれていました。どんな仕事を振ればいいか気遣ってくれていたようです。そのぶん、仕事の『量』がボクには足りませんでした。何でも良いから『試合』に出たかった。仕事がヒマだからサン・アドから来たのに、電通でもヒマでした。ある日、会社の行き先掲示板に『銀座→日比谷→六本木→中目黒→NR(直帰)』と書きました。なんのことはない、東銀座から日比谷線に乗って中目黒で東横線に乗り換えて祐天寺の家に帰ります、という意味でした。そんな『反抗』をしていた問題児だったのです。今思うと、『化学変化を起こしたい』という言葉から、電通の悪い部分だけを見つけて文句ばっかり言っていた「見当違い愚痴野郎」でした。そんなこんなで2、3年。この転職は失敗だったのか、と思う日々。そして、その「見当違い愚痴野郎」に転機が訪れます。(つづく)
電通に来ない?…サン・アドから電通へ①
晴れた…サン・アドから電通へ③
同期の3人(+1)
リンク元 プロフィール 異端児
CM全盛期時代の禎さんと同世代の私も同じ様な想いを馳せてたコトを共感しました!お互いフリーを謳歌していきましょう♬