山田先生の手書き文字


中学の時の担任、山田弘司(ひろし)先生は、当時まだ30代前半の若い体育の教師だった。紺色のVネックのウインドブレーカーで、裾が細くなっているランニング用のジャージに、いつも両手を入れていた。(ポケットに、ではなくウエストのゴムの内側に手を入れていたように思う)手より先に蹴りが飛んでくる怖い先生だったけど、みんなから好かれている先生だった。フェアで正直で真っ直ぐな先生だったからだと思う。

昨年の8月、北九州市門司区で柳西(リュウセイ)中学卒業生の還暦同窓会が催された。中学3年生が60才になるのだから山田先生はもう70代後半なのだろう。何度か重いご病気で入院されていたそうだが、『あの世から「まだ来るな」と言われたんじゃ』と笑っていた。同窓会でお会いして、コピーライターとして書いた本を贈り、読んでいただき、一緒に写真を撮り、その後何通か手紙のやり取りをさせていただいた。

『早いもので同窓会から半月経ってしまいましたネ。本当に楽しい会で時間が止まって欲しいと何度も思った』と葉書をいただいた。同窓会のとき、別の中学での教え子が東京代々木でレストランをやっているから行ってみなさい、と薦められた、その詳しい話が書いてあった。家人の誕生日にそのレストランに行き、オーナーの方と山田先生の話をして笑い合った。その報告をしようとした時、山田先生が今年に入って療養のため再入院されていると知った。

先生を励ます意味で手紙を書いた。「ボクは今、フットサルで膝を痛めているので、プールで泳いだり筋トレしたりしています。60才になり、この体で生きていくので人間ドックや大腸内視鏡など点検・整備してやってます。山田先生も、東京オリンピックのマラソン見るまでは頑張ってもらわないと(笑)」と書いた。筆まめな山田先生から返事が来ない。病床でまだ書く元気はないのかも、と思っていた。ふと昨夜、机の上に置きっ放しになっていた、山田先生からのハガキに目がいって、ああ、返事がないのはまだ元気じゃないのかもなぁ、と思った、その翌朝。

柳西中学の同級生からメッセージが届いた。『昨夜23時33分、山田弘司先生がご逝去されました』昨夜、このハガキに目をやった頃の時間だ。山田先生がボクのことを思い出してくれていたのかもしれない、と思った。

ボクは、人が亡くなった時、しばらくはその辺を飛び回っているんじゃないかと思っている。魂は肉体からは抜け出てしまうから、その分、何処へでも飛んでいける。会いたい人に会いに行ったりできるんじゃないかと思っている。行けるんだけど、話せないし触れもしない。だけど見えてるし聞こえてると思っている。

電報を送ったり飾り花を送ったり会社名や役職名だけの看板を送ったりするのではなく、目を閉じて、山田先生のことを思い出すことが一番の供養だと思っている。九州の方角に向かって正座して黙祷。山田先生、ありがとうございました。

『・・・時間が止まって欲しいと何度も思った』という手書きの文字に、胸が詰まります。