晴れた…サン・アドから電通へ③

一番搾り晴れた1992年の元旦の新聞全頁広告

電通に来ない?…サン・アドから電通へ①
馴染めない問題児…サン・アドから電通へ②

助けてくれたのは一番搾りでした。故・高梨駿作CDがキリン一番搾りのチームに誘ってくれたのです。このチームの打合せに参加して最初に気づいたこと。それは「電通には優秀な人間がこんなにたくさんいるのか!」ということでした。クリエーティブのCMプランナー安西俊夫さんが優秀なのはもちろん知っていましたが、SP局の人間(当時はセールスプロモーション局といって販促施策を考える部署の中西謙司さん)も優秀。マーケの人間(小林くん)も優秀。なにより営業の人間(前田圭一さんをはじめとする第3営業局KIRINチーム)がメチャメチャ優秀。みんな意見が明快で、アイデアは出すわ、決断は早いわ、行動力はあるわ。とにかく「切れる」ヤツらばっかりでした。

「電通にもこんなに優秀な人たちがいるんだ」
「そうか!こういう人たちと仕事をすればいいんだ」

つまり、電通の悪い部分ばかりを見つけようとするのではなく、電通の良い部分を見つけて、そこに自分が行けばいいんだ、と気づいたのです(遅いよ!)ダークサイドばかり見ているとそっちに引込まれる。いい人を見ているとそっちについて行ける。目の前がパッと晴れました。さらにいうとこの一番搾りチーム、CMを制作してくれた菊地誠さん率いる太陽企画チームも全員ナイス、グラフィックの宮田識さん率いるドラフトももちろん優秀でした。このチームの一員になれたことで、だんだん調子を取り戻すことができたのです。(電通の営業の新人も太陽企画の制作の新人も、最初は危なげでもすぐに一人前に鍛えられていくのがわかるほどでした。チームって大事なんですね)

92蝉が鳴く好きに書かせていただいた一番搾りのコピー

そんなある日、親分の仲畑さんが食事に誘ってくれました。赤坂見附のすき焼き屋でした。

「どうや、中村。ええコピー書いてるか?」
「はい、最近一番搾りのチームに入れたので、ぼちぼちです」
「そうか、よかったなぁ。中村は時間がかかると思ってたんだ(馴染むのに)」
「えーっ!知ってたんだったら、早く言ってくださいよー!w
 電通に行ってもいいって
 仲畑さんが言ってくれたんじゃないすかー!もーw」

当時もらった、仲畑広告からの年賀状。そのなかの赤いサインペンの手書きのひと言が忘れられません。

「タダシちゃんも、調子でてきたようで、ヨカッタ。ナカハタ」

やっと馴染んできたうれしさより、親分は心配してくれていたんだということが、涙がチチョギレルほどありがたかったことを憶えています。33、4才頃のコピーライター中村禎でした。(つづくの?)

【参考】
こんなコピーを書きました●晴れた。
こんなコピーを書きました●ビール、ビールと蝉が鳴く。

リンク元 プロフィール キリン一番搾りのチーム

馴染めない問題児…サン・アドから電通へ②

築地電通ビル売却される築地本社ビル。最上階、展望室の喫茶室で遠くを眺めながらコピーを書いていた。

30才を過ぎた転校生は、なかなか電通に馴染めませんでした。岡田耕さん「電通のクリエーティブに他の血を入れることで、化学変化を起こしたい」とおっしゃっていた。ボクはそれを『意訳』しすぎたのかもしれません。『電通のクリエーティブを変えたい。刺激を与えて欲しい』と言われたと勝手に思っていました。確かにそういう目的もあったと思いますが、とにかく『変えなくちゃ』と力み過ぎていたのかもしれません。

配属先の局会で今までの仕事をビデオで見てもらうとき、唖然とすることがありました。『中村さんは、コピーライターなのにテレビCMもつくられるそうです』と紹介されたのです。当時の電通は、コピーライターはグラフィックの仕事をする人、CMはCMプランナーの仕事、という空気だった。大丈夫か?この会社・・・と思ったものでした。サン・アドではコピーライター、アートディレクター、フィルム・ディレクターの3人いればキャンペーンがつくれました。演出家がワンビジュアルを提案したり、ADがコピーを出したり、コピーライターがコンテを描いたり。それぞれが自分の職業を軸足に、マーケッターや営業や他のジャンルの守備範囲にも動きながら企画をする。そういうスタイルでボクは育ちました。版下を自分の手でつくらないデザイナー、やたらと人数が多い会議、プレゼン直前に初めて顔を見せ、ダメ出しをする営業局長・・・。何もかもがサン・アドのやり方とは違っていました。

完全なスランプ。満足のいくものが何もつくれず、新人賞以来毎年掲載されていたコピー年鑑にも、ついに何も掲載されないという事態に。さすがにこれはショックでした。当時の親分は大島征夫さん。大島さんはなんとかボクにいい仕事をさせようとしてくれていました。どんな仕事を振ればいいか気遣ってくれていたようです。そのぶん、仕事の『量』がボクには足りませんでした。何でも良いから『試合』に出たかった。仕事がヒマだからサン・アドから来たのに、電通でもヒマでした。ある日、会社の行き先掲示板に『銀座→日比谷→六本木→中目黒→NR(直帰)』と書きました。なんのことはない、東銀座から日比谷線に乗って中目黒で東横線に乗り換えて祐天寺の家に帰ります、という意味でした。そんな『反抗』をしていた問題児だったのです。今思うと、『化学変化を起こしたい』という言葉から、電通の悪い部分だけを見つけて文句ばっかり言っていた「見当違い愚痴野郎」でした。そんなこんなで2、3年。この転職は失敗だったのか、と思う日々。そして、その「見当違い愚痴野郎」に転機が訪れます。(つづく)

電通に来ない?…サン・アドから電通へ①
晴れた…サン・アドから電通へ③
同期の3人(+1)

リンク元  プロフィール  異端児

電通に来ない?…サン・アドから電通へ①

パレスホテル当時のサン・アドは丸の内1−1−1パレズビル9F

1988年。サン・アドのコピーライター中村禎くん(当時30才)は悩んでいた。若くして東京コピーライターズクラブの最高新人賞を獲ってしまった中村くんは、周りからは順風満帆のように見えていたかもしれませんが、実際本人はメチャメチャ悩んでいたのです。「中村君、売れっ子だねぇ。忙しいでしょう?」と言われるたびに困っていました。だって全然忙しくなかったから・・・。同い年のコピーライターたちもぼちぼち活躍し始めていた頃。サン・アドに入ったからには30代前半で独立してフリーのコピーライターになる、というのが当時の通常ルートでした。新人賞を獲って、ブレーンやコマフォトなどの業界誌にも取り上げられて「期待の新人」のひとりではあったものの、本人は焦っていました。「まだまだ全然経験が足りない。こんな状態ではフリーなんてとても無理だ。もっと仕事がないものだろうか」と思っていた30才。会社はなにも仕事をくれない。待っていても何も変わらない。そう思って自主プレゼンをひとりで考えたりする焦る日々が続いていました。サッカー選手も試合に出なければうまくなれない。試合に出ないとコンディションはどんどん落ちる。コピーライターも同じだと思っていました。そんなある日・・・。

電通のクリエーティブ局長だった岡田耕さんから食事に誘われました。岡田さんはコピーライター中村青年が前職のJWトンプソンの営業だったときに通っていた、コピーライター養成講座専門クラスの先生でした。「わーい、ご馳走してもらえるなんて、ラッキー!」と気楽な気持ちで待ち合わせのホテルに行きました。今はもうない銀座東急ホテルだったかな。「中村君、電通に来ない?」・・・・想像もしてなかったことを言われたのです。

正直、悩みました。サン・アドを辞めるときは独立する時だと思っていましたから。しかし、当時の中村くんは、「なんか、フリーの時代ではないような気もするなぁ・・・」とも感じていました。このままサン・アドで自主プレして経験を積めるのだろうか。このままサン・アドにいてもADナガクラくんと組める仕事は年に1回あるかないかだ。もし電通に行ったらたくさん仕事があるのだろう。その仕事をサン・アドの人たちとやったほうが早いんじゃないだろうか。いろいろ悩みながら親分に相談したのです。親分も即答はしませんでした。一緒に悩んでくれました。仲畑さんと差しで飲んだのはあれが最初だったと思います。パレスホテル地下の高級鉄板焼きの店で悩む、中村禎30才、仲畑貴志40才。いろいろ話して「電通なら、ええかもな」そう言ってくださった。そして、決心したのでした。(つづく)

馴染めない問題児…サン・アドから電通へ②

リンク元  プロフィール 電通に誘われる

同期の3人(+1)

下田一志、御倉直文、中村禎。この3人は電通の同期だ。たった3人の同期。1988年当時クリエーティブ局長だった岡田耕さんと部長の大島征夫さんは「電通クリエーティブに初めて外部から経験者を入れるプロジェクト」を任されていた。岡田さんは「電通のクリエーティブに他の血を入れることで、化学変化を起こして、もっと活気のあるものにしたいんだ」とおっしゃっていた。大阪の東急エージェンシーから下田、眞木準企画室からフリーになっていた御倉、そしてサン・アドの中村。大島さんは「君らを入れてよかった、ってことになればこの途中入社制度は続く。うまくいかなかったら今回限り」と言っていた。その後、何人ものクリエーティブ途中入社が続いているから、うまくいったんだと思いたい。ちょっと年上の下田が2月の誕生日で電通を去る。飲もうか、ということで集まった。もうひとり山田達也も。彼は電通クリエーティブクロスに途中入社で入った。4人で飲んだ。写真は1枚も撮らなかった。また会うからいいか。この4人には電通系途中入社という以外にも共通点がある。全員、FCバッカーノなのだ。‪#‎1下田‬‪#‎7御倉‬‪#‎10山田‬‪#‎21中村‬。まあ、これからも長い付き合いになるだろう。よろしくね。

夏野剛さんの言葉①

夏野さんの話

『イノベーションは摩擦から生まれる』

昔、夏野さんが役員をしていた会社で、社長が「君にはいつも議論で論破されていてくやしい」とマジで言ってきたそうだ。夏野さんは「いいじゃないですか、そんなこと。あなたは社長でいるんだから、それでいいじゃないですか」と言ったら本気で怒ってきたそうだ。大事なのは摩擦を恐れずに議論して、いい方向を見つけてそこに進んで行くことであって、誰がいいことを言ったかなんか、どうでもいいじゃないか。そんな年功序列のメンツを気にしているから予定調和が崩れなくて進化が遅れるのだ、と夏野さんはいいたそうだった。

『イノベーションは摩擦から生まれる』ということは「摩擦を恐れるな」「意見が違うことを大事にせよ」「議論を避けるな」ということではないか。会社の役員会議などで社長に「それは違うと思います」と言っている取締役はいるのだろうか。みんなが「上」の顔色を伺って、自分の保身ばかり考えている役員がいる企業はダメだ、とも夏野さんは言っていた。一番簡単な方法は、役員の半数を外部から入れることだ、とも。

『イノベーションは摩擦から生まれる』
これは以前、ボクの師匠の仲畑貴志さんが「異論を大事にする」と言っていたことに通ずる。(仲畑貴志さんの話①)藤原和博さんが「脳みそを混ぜるブレストが大事になってくる」と言っていたことに通ずる。(藤原和博さんの話)新しいこと、いい方向を発見するには、やっぱりこのやり方が正しそうだ。

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(EMC Cloud Executive Summit 2014 「企業ビジネスの成長・革新と事業継続・運営効率化のためのクラウド活用」という日経BPとEMC(企業向けクラウドを扱う会社)が主催するセミナーに行きました。夏野剛さんの「IT・クラウド戦略で変貌する社会と日本企業の未来」という講演からメモした言葉より)

夏野剛さんの講演(忘備録)

夏野さんの話

EMC Cloud Executive Summit 2014「企業ビジネスの成長・革新と事業継続・運営効率化のためのクラウド活用」という日経BPとEMCが主催するセミナーに行きました。夏野剛さんとサッカー解説者山本昌邦さんの話も聞けるというので申し込みました。まず夏野さんの話「IT・クラウド戦略で変貌する社会と日本企業の未来」という夏野剛さんの話のメモを記します。@品川カンファレンスセンター

・1994年からの20年で日本のGDP成長率はたった2%だった。
・同じ時期のアメリカはGDP成長率200%、つまり3倍。
・アメリカの人口は日本の2倍で、人口も30%増えているからそのぶんを差し引いても170%はどう説明すればいいか
・日本は、ITがインフォメーション・テクノロジーのことだ、とは知っている。言葉では。
・しかし、「社会認識としてのIT」を理解していなかったのではないか。
・90年代後半にやっとひとりに1台のパソコン、ケータイ。

・IT革命とは何だったか?
・①効率革命(あらゆることの効率が上がった・スピード)
・②検索革命(Googleの出現・にわか専門家が増大・情報収集能力が飛躍的に向上)
・③ソーシャル革命(個人の情報発信力の拡大)→いままでは『個人の気付き』を広げることができなかった→それがソーシャルメディアで広げることができる時代。個人の気付きの共有が早くできる。昔から「法則」の発見は「個人名」でしょ?『ニュートンの法則』『ヴェーバー‐フェヒナー?の法則』とか。

夏野さん曰く
・いまだにWEBで選挙ができない国なんて遅れ過ぎ。ITをわからない「老人」に合わせてルールをつくるからそうなる。その「老人」が企業や国のトップにいる。→(この場合の「老人」とは高年齢の人のことではない。脳が堅い人のことだと思う。禎)
・つい最近まで政治家のWEBページを更新することも許されなかった。その理由が「プリントアウトできるから、ポスターに該当する」からだと。バッカじゃないの。→(50年以上前の公職選挙法をそのまま使っていることに問題があるわな。禎)

・いまだに「USBメモリー差しちゃダメ」とか「閲覧禁止」とかやってる企業はダメ。
・トップダウンの構造(社長→役員→局長→次長→部長→課長→みたいな構造の企業はおかしい)
・「個人」と「組織」が融合した企業が成長する
・情報は全社員が平等に共有するべき
・役員がすべて同じ会社出身だから弱い企業になる。半分は社外から連れてくるべき(→それはどうかわからないが、ただ年齢が上だとか業績がよくて出世した人が果たして「経営」のプロと言えるのだろうかとは思う。ドラッカーとかの本を読んだだけで経営できるのか、とも思う。禎)
・生物学的に見ても、同じ種の集合体は一度の食中毒で全滅する。
・いろんな種の集合体のほうが繁栄してきた。
・純血種より雑種の方が強い。企業も同じ。(→なるほど。禎)

・イノベーションは摩擦から生まれる。みんなが「同じ人」ではダメ。議論しないとダメ。
・日本人の弱さは、①語学能力の低さ(これはなんとでもなる)②個性軽視(みんな同じじゃないとしかられる教育)③議論軽視(反対意見を言いたがらない)④予定調和好き

・企業は今後6年〜10年が勝負。
・2020年までに人口は300万人減る
・2030年までに人口は1000万人以上減る

(←だからどうしろ、という結論はないんだけど、そういう状況にあることを自覚して行動せよ、ということかな。ボクには『個人の気付きの共有』 『イノベーションは摩擦から生まれる』という言葉が刺さりました。禎)

いいね!のしるし

手帳と付箋

 

このポストイットを使い始めて、2年くらいになるだろうか。いろんな人が気づいてくれて「あ、何これ?」と言ってくれる。実はこれ、宣伝会議コピーライター養成講座専門コース9代目中村組の卒業記念にもらったもの。ボクの似顔絵のポストイット。これを大量にもらった。なぜポストイットかというと、その9代目では毎回の講義の後にテーマを決めて「句会」をやっていて(あのときは武玉川だっけ?)みんなが書いた句を壁に貼りだして、自分がいいと思う句に自分の名前を書いたポストイットを貼っていく。そしてその作者に100円あげる。そんなことをやっていた。で、卒業記念にボクの似顔絵が「いいね!」しているポストイットをつくってくれたというわけ。手帳や書類やあれやこれやに使っているのを見つけた人が「あ、何これ?」と気づいてくれる。先日、自宅の食卓に置いてあったこのポストイットを見つけた妻の母親も「あ、何これ?禎さんの顔?」と言ってくれた。(少し持って帰ったらしい)

付箋みどり

 

最初は正直「こんなにたくさん要らないよ~」と思うくらい大量にもらったが、最近は「なくなると寂しいから大事に使おう」と思っている。ありがとね。(これ増刷できないのかな)

偶然の女神は・・・

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「偶然の女神は、準備のできた心に訪れる」

     NHK「ザ・プロフェッショナル」より

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誰の回だったかは忘れましたが、 NHKの「ザ・プロフェッショナル」はよく見ていて、心に残った言葉をメモしていました。そして、宣伝会議コピーライター養成講座専門コース中村組のテキストというかレジュメの「こんな言葉がありました」のコーナーで紹介したものです(2007年版)。なんで思い出したかのようにここに書くか、といいますと。中村組OBから質問が来たので、返事をしたのでした。

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【募集】コピーライターの中村禎さんが
おっしゃっていたと人づてに聞いた言葉、
「幸運の女神は、〜〜した人にやってくる」
みたいなフレーズが思い出せない。
打席に立ち続ける人だからこそ、
ラッキー安打が打てる。
みたいなニュアンスの言葉です。
誰か知っている方、コメントで教えてください。
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「偶然の女神は、準備のできた心に訪れる」
・・・NHK「ザ・プロフェッショナル」
(2007年の『中村禎の場合』より)
のことかな? と返事をしました。

「偶然できた」とか「偶然見つかった」というと、なんか運がいいねぇとかラッキーだねぇと言われそうですが、そうじゃないということです。いまから33年ほど前、この言葉を実感することがありました。JWトンプソンという広告代理店の新入社員の営業として働き始めた頃、コピーライターになりたくて社内で活動をしていました。その一環で求人広告も探していました。そして「偶然にも」サン・アドのコピーライター募集の突き出し広告を「見つけた」。そして応募した。当時通っていた宣伝会議コピーライター養成講座専門コース岡田耕さんのクラスのみんなと飲みに行ったとき、ボク以外はみんなすでにコピーライターの名刺をもっていた彼らは、誰一人そのサン・アドの求人広告を知りませんでした。「中村は運がいいなぁ」と言われましたが、それは違うと思っていました。ボクは必死でした。必死でコピーライターへの道を探していました。だからあの小さな突き出し広告を見つけられたのだと思っています。その思いと同じことをNHKの「ザ・プロフェッショナル」の誰かさんが言っていたのです。

自腹という覚悟

105期修了式

コピーライター養成講座基礎コース修了式の懇親会に行ってきた。基礎コースでは、専門コースの中村組とは別に、少人数クラスという3回のクラスを受け持ってて何人かは知っている顔がいるのでいつも行くことにしている。ボクも大学4年の頃、この基礎コースに通っていたので、こういう懇親会に講師の人が来てくれるとうれしい(だろうと思う)だから、行くようにしている(ボクの頃はこういう会はなかったから)

いろいろ話していて、自分が通っていた頃を思い出す。そこで、宣伝会議のエライところに気づかされる。ボクが通っていた頃と今と、受講料がほとんど変っていないのだ。ボクが通った1979年頃は確か16万8,000円くらいだった。聞いてみると、今もそれくらいだという。なんとほとんど値上げしていない! 宣伝会議、スゲー、と修了生たちに話した。しかし、ちょっと待てよ? とも思った。ボクが大学生だった時代のアルバイトの時給は500円がいいほうだった。今はというと、時給1,000円くらいだという。つまり、貨幣価値からすると当時の16万8,000円は現在の33万6000円くらいじゃねーか? てなことを今の修了生に自慢しながら、ふと思う。何を言いたいかというと、金額はいくらにせよ、ボクは当時16万8,000円の(現在の貨幣価値でいう33万6,000円くらい←しつこい)自腹の覚悟をしたんだ、ということ。今の修了生も16万8,000円の自腹の覚悟をしたということ。学生でこの金額は大金だ。ボクもバイトの貯金だけでは足りず、親から借りて払ったと思う。つまり、お金を払ってでも学びたい、なんとか技術を習得したい、どうしても広告業界に入りたいというハートの強さが大事なんじゃないかと思った。

ボクは社内でコピー講座のようなものをやることがある。(注:当時は電通クリエーティブ局に在籍中)しかし弊社の新入社員と宣伝会議の生徒とでは目つきが全然違うと感じる時がある。社員は当然無料、しかも給料をもらいながら教えてもらっている。宣伝会議の生徒は自分の貯金をはたき、借金してでも通って来ている。中には長距離深夜バスで通う者もいる。その差はなんだ? ハングリーさの差以外にないだろう。無料で教わることと、自腹をはたいて教わること。どっちが染み込むか、ということ。ま、本人の気持ちの持ち方次第なんだけど、自腹にはそれ相当の覚悟があるのだと思う。修了式では「あ〜やっと終わったか」という顔もあれば、「まだまだ足りない・・・」と思っている顔もある。自腹の覚悟をした目は清々しく、澄んでいると思った。

追伸:今年の宣伝会議賞で。協賛企業賞の8代目中村組名引佑季くんは大阪から。同じく協賛企業賞の8代目松田孝一くんは名古屋から。眞木準賞の9代目古橋亮羽くんも名古屋から。偶然にもみんな深夜バスで中村組に通ってくる若者たちだった。

ユナイテッドアローズのおさるさん

2014宣伝会議賞

いつから始めたかは忘れたけれど、中村組の子が宣伝会議賞を取ったら、軽いお祝いにユナイテッドアローズのおさるさんをあげるようにしてきた。今回の宣伝会議賞では3人のOBが協賛企業賞を取っていたので、授賞式の前に新宿のユナイテッドアローズに寄って3匹買って最終審査会場の六本木ヒルズに向かった。

●たった26文字の組み合わせで、世界は広がる。ECC(8代目名引佑季)

●キレイなおばあちゃんになるつもりだ。牛乳石鹸(8代目松田孝一)

●売れない方法も、知っています。ディーエムソリューションズ(10代目植村明弘)

待てよ? 3次審査通過に何人か中村組の名前が残っていたなぁ。もし誰か受賞したらサルが足りなくなるなぁ。幸い六本木ヒルズの中にユナイテッドアローズがあったぞ。よし、1匹追加しておこう。と気を利かせたつもりだった。ところが。最終審査が終わった会場で受賞者の名前が発表されると、なんと中村組の名前が3人も!

●CMゴールド:『何気なく間違えている結婚式のBGM』篇(11代目合田ピエール陽太郎)

●眞木準賞:走れ、親孝行。西日本高速道路(9代目古橋亮羽)

●シルバー:脚立は、脚立としての時間は短い。長谷川工業(7代目柴田尚志)

2匹足りないっ!でもラッキーだった。審査会場の森タワーを降りると1階にユナイテッドアローズがある。授賞式までまだ時間はある。あわててもう2匹捕まえに走った。宣伝会議賞の授賞式で6人もの中村組OBに会えるなんて。(正確には7人。ひとりは協賛企業のクライアントに9代目宮本真由美がいる)

授賞式に参列しているファイナリストたちは自分の名前が呼ばれるかどうか、ドキドキだったと思う。中村組の修了のときに渡したメッセージ入りのボクの名刺、秋篠寺のお守り、眞木準さんからもらった金の鉛筆・・・それぞれが「お守り」を持って授賞式に来ていたそうだ。たまたま眞木準賞のプレゼンテーターをやることになっており、教え子の名前を読み上げるという幸運。賞状の文章を読んでいる時、実はちょっと足が震えていた。(バレなかったと思うけど)

『中村組、すごいっすね』と言われると正直うれしい。ただ、ボクの教え方がいいとかそういうことじゃなくて、中村組の自慢はOBになってもつながりがあるところだと思う。常に「くやしい」とか「うれしい」を共有できるから、モチベーションが持続するところがいいんだと思っている。うれしくてその日は3次会まで行った。(ひとり、カオタンラーメンにまで行ってしまった)