仲人はやらないよ

写真はその9代目が卒業記念で作ってくれた短冊ポストイット

中村組のOBが「禎さん、ご報告がありまして」と妙に畏まってやってきた。「実は今度、結婚することになりまして。彼女を紹介したいので今度お食事する時間をいただけませんか」という。そりゃ、おめでとう。と、土曜日のランチの約束をした。

奥さんになる人とその彼と3人で会う。ん? もしかして仲人とか頼まれるの?それはダメだよ。それなら行くのはイヤだなぁ、と確認したら、そういうことじゃないという。それならいいや、と出向くのだが、何か違和感があった。なんでわざわざ彼女を紹介するのだろう?と。

ああ、もしかして、奥さんになる人。ボクも知ってる人で、ビックリさせようとしているのかも、と思った。誰だろう?彼の同期か?もしかして、OBの先輩か?後輩か? そういう心の準備をして、表参道のおしゃれな和食屋の階段を降りていった。

『あ!やっぱり!笑』だった。二人は中村組9代目の同期だった。そういうことか!そんな気もしたんだけど、この組み合わせだとは想像つかなかったね。

コピーライター養成講座専門コース中村組同士で結婚するカップルはこれで二組目だ。中村組のOBだから、人柄は保証します。傘の先っぽを振りながら歩くなんてしないし、電車の中でリュックを背負ったままで人の迷惑になることなんてしない。口喧嘩になりそうなときも、相手は何を言いたかったんだろう、と思い至れるし、自分がされたら嫌なことは人にしないし、自分がされてうれしいことを人にしてみるし。

コピーのテクニックを教える講座じゃなく、人として幸せに生きていくためのヒントを教えたられたとしたら、最高です。ずっと仲良くシアワセにね。

60歳は、いま何時?


年齢を重ねていくと、誰しも「寿命」を考えると思います。何歳まで生きるのだろう、と、考えても仕方のないことを考えてしまう。そして、1日24時間のうち、いま何時くらいだろう?と考える。日付が変わる24時で一生を終えるとしたらいま何時くらいなのか。日が暮れて、夜になって、ああ、もう1日も終わってしまうのかと寂しくなるから、そういう計算はするまいと思っていました。

でも、「ん!」と思うことがあったので、算出してみました。人生90年としたら60歳は3分の2。24時間でいうと16時。夕方の4時ですね。人生85年で計算すると、24(時間)÷85(年)×60(歳)=16.9411765(時)約17時です。夕方の5時。そう、『5時から男』(←知ってる人は知っている)の時間です。そろそろ仕事を片付けて、待ち合わせをして、おいしい食事とおいしいお酒が待っている時間。好きな人たちと過ごせる楽しい時間の始まりです。

40代はもちろん、50代の人もまだ勤務時間中。まだシャンパンで乾杯するには早い時間でしょ。まだまだ頑張らなきゃいけない、いろいろ我慢しなきゃいけない時間帯。(頑張って!)

これから深夜24時までの時間を、フルに楽しむために大事なのが「体調」です。これから大好きなフットサルして、おいしいもの食べて、お酒を飲んで楽しむわけだから、途中でケガしたり、気分が悪くなったり、眠ってしまっては意味がない。そういう意味で、体のメインテナンスが大事です。

まずは左膝を治す。大腿四頭筋の筋トレ、ストレッチ、プールトレーニング。そして人間ドック。脳のMRI 、血液の腫瘍マーカー検査。そして大腸内視鏡検査。この1957年製の身体を点検・整備して、夜中の24時まで突っ走りましょう。

「長生きしたんが悪かったんかのぅ」

高齢者が古いアパートの建て壊しで退去を迫られ、転居先がなくて困っているという報道番組を見た。身寄りのないお年寄りの一人暮らしには、なかなか部屋を貸してくれないのだという。「長生きしたんが悪かったんかのぅ」という呟きが重い。みんなが長生きしたいと思っているという時代から、長生きしないほうがいい、という時代になっていくのか。超高齢化社会とはこういうことなのか。

2025年問題という言葉があるのを知らなかった。2025年には団塊世代が後期高齢者(という言い方は好きじゃないけど)75歳以上になる年だという。そんな中、朝日新聞の記事が目に留まった。「いかに最期を迎えるか 自分なりの死の哲学」という記事。先日逝去された評論家の西部邁さんのことに触れられていた。彼を自裁死に至らせたのは、家族に介護上の面倒をかけたくないという思いからだったかもしれない、という。

考えさせられる。いや、考えなくてはいけない。そう思って、昨日の新聞を取り出して切り抜いた。そしたら、その裏に、「すごい…」の広告が。広告を裏にして折りたたんだ。

二人の中村くん

中村裕一朗。みんなからは「裕さん」と呼ばれていた背番号5のセンターバックだった。中村禎。タラシと呼ばれていたボクは背番号10。ふたりとも中学時代からサッカー部で、試合で対戦したこともあった。裕さんは風師(かざし)中学で、ボクは柳西(りゅうせい)中学だった。

高校に進学し、ふたりは同じ高校になった。当時の門司高校には(公認の)サッカー部はなく、学校のグラウンドが使えず、「同好会」みたいな立場で、関門海峡を見下ろす山の中腹の空き地で練習していた。ゴールネットもない、木の柱を立てただけの空き地だった。(今思うと、ブラジル的ともいえる)

そんな懐かしい「裕さん」とFBでつながった、ら、裕さんがこんな写真をアップしていた(上のバイクの男) ホンダCBR400エンデュランスF3、ヘルメットはSHOEIのワイン・ガードナーモデルじゃん。なぜ、それがすぐわかったか。それは、ボクが下の写真だったから。1986年頃の写真。ボクもホンダCBR400に乗っていて、永福町にあったWhite というバイクのカスタムショップでオリジナルカラーにペイントしてもらい、SHOEIのヘルメットを、エディ・ローソンモデルに塗装してもらった。

このバイクの二人は、一緒に走ったことはないけれど、中学高校の同じ土のグラウンドでは走っていた。なんか、同い年にしかわからない話ですいません。もう何十年も会っていないサッカー部のチームメイトとの、この偶然に感動しているもんですから。

本社ビル60年点検


本社ビルの60年点検。厄除けよりも人間ドック。生まれて初めて脳のMRIなどもやります。半分機能してませんよ、とか言われたらどーしょ。

脳のMRI初体験。胸部CTより狭く、頭を固定され、パイプの中に入っていく。グワーングワーン大きな音がする。棺桶に入れられて火葬される時は、きっとこんな感じなんじゃないかと思った。意識はあるけど身体が動かない状態。

2017年12月の551

今年も12月の大阪に行くことができました。新大阪駅構内のお店、梅田阪神百貨店、大阪駅大丸、どこの売り場もいっつも行列している551の豚まん。ヒマにしている551は見たことがありません。こういう、みんなに愛され続けるものをつくり続ける仕事ってすごいなぁと感心し、嫉妬します。さてさて今年もクリスマスの12月。551の手提げ袋はどーなっているでしょう?ジャーン、やっぱりクリスマスバージョンになっていました。

歴代を整理しました。

HORAIの「A」がツリーになっているのが2016年。


HORAIの「I」が帽子をかぶってるのが2015年。


うっすらピンクになっているのが2013年(友だちが送ってくれました)。2014年はどうだったんだろう?その前はどうだったんだろう?みなさん、551の豚まんの手提げ袋、気づいてました?551ファンの情報によると、バレンタインの時はHORAIの「O」がハートマークになっていたこともあるそうです。こういう、ちょっとした心遣い、好きだなぁ。ファンになるよなぁ。

東京駅で551の手提げ袋を下げて家路を急ぐ人がいる。その人がもう立派な「広告」になっています。ファンだから自らが551の広告している。レアルマドリーのファンがレアルのユニフォームを着るのと同じですよね。ファンをつくることって大事なんだよなぁ。疲れた顔したビジネスマンやおしゃれで美しい女性が551を持っている。思わずニヤっとしてしまいます。「ボクもそれ、大好きです!」と話しかけたくなります。だって好きなんだもの。

蛇足:大阪へ行く時は、以前買った「チルド用保冷バッグ」を忘れずに持って行くことにしました。

写真の記憶

「人は、その人のことを憶えている人が誰もいなくなった時、2度目の死を迎える」という言葉を聞いたことがあります。その人が亡くなっても、その人のことを憶えている人がいる限り、その人は生きている、と。その考えに賛成します。2012年11月29日、電通時代、手のかかるボクを見守ってくれた寺田伸一さん。兄貴のような父親のような存在でした。ああ、今日で5年になるんだなぁ。

仲良しの奥様の伸子さん。伸一さんと伸子さん。名前だけ見ても仲良し夫婦だとわかります。入り船ビルや聖路加ビルで寺田部だった頃、夕方6時くらいになると電話で「あ、ノブちゃん?うん、じゃあ、あそこで」と連絡を取り合い、「じゃ、お先に」と帰っていくクリエィティブ・ディレクターは、とても素敵でした。

その伸子さんも病に倒れ、今年の3月に寺田さんの元へ旅立たれました。天国でまた仲良くやっているんだと思います。この写真は、伸子さんの葬儀の時に飾られていたもの。すっごくいい写真です。そこにお二人がいるような写真。「おぅ、ナカムラ、来てくれたのか」と寺田さんが言っています。

寺田さんたちご夫婦のこと憶えている限り、寺田さんたちは生きています。

世界のトップ4と

さて問題です。この写真はなんでしょう? 見る人が見ればスゴイ!人たちと写ったものです。サッカーに例えて言うならば、クリスティアーノ・ロナウドメッシ澤穂希ワンバックの4人と、サッカーのこと全く知らないオッチャンとの写真、みたいなものです。

これは、世界の囲碁界トップ4の選手たちなのです。写真左から、謝依旻(シェイ イミン)六段柯潔(カケツ)九段、オッチャン挟んで、於之瑩(ヨ シヨウ)六段井山裕太九段。ペア碁という、男女がペアになったチームとして囲碁を戦う、その最強位決定戦の後のパーティでの写真です。

「ペア碁ワールドカップ 2016東京」優勝ペアの於之瑩六段・柯潔九段ペア(中国代表)と今年8月に行われた「ペア碁最強位戦2017」優勝ペアの謝依旻六段・井山裕太九段(日本代表)の4人。

もう一度サッカーに例えると、2014年W杯で優勝したドイツと、クラブW杯で優勝したレアルマドリーが試合をするようなもの。その時のレアルのクリスティアーノ・ロナウドセルヒオ・ラモス、ドイツ代表のノイアーゲッツェと一緒に写真を撮ったようなものなんです、サッカー全く知らないオッチャンとが。

囲碁は全くできないボクが、なんでこの場所にいるのか。それは、この大会の告知ポスターを制作させていただいたから。
「囲碁のミックスダブルス。試合中しゃべると反則。」
「1+1=2、以上の強さになる。」
「黒石女→白石女→黒石男→白石男→。」
「強いもの同士のペアが強いとは限らない。」
「自分以外、3人の頭の中を想像しながら戦うゲーム。」
「ケンカはやめた。ペア碁で戦う。」
「人間はミスをする。人間がフォローする。」
などなどのコピーでポスターを作りました。

選手のスピーチでうれしかったことがありました。日本代表(女性)の謝依旻六段が、『あのポスターを見た、囲碁に全く興味がないはずの友人から連絡があってビックリした』と言ってくれたのです。ボクみたいな囲碁を知らない人間がこの仕事をした狙いは、ボクみたいに囲碁に興味がない人にいかにこの大会いかに興味を持ってもらうか、でした。選手の口からその「効果」が聞けて、うれしく思いました。謝さんは、掲出されているポスターの前での自撮り写真も見せてくれました。有り難や。

サッカーワールドカップ決勝後の優勝チーム、準優勝チームの選手たちとFIFAの会長ら大会関係者との祝宴の末席にお呼ばれしたサッカー全く知らない人、という状況でした。

【言い訳】囲碁ファンからすると、囲碁もできないヤツがこんなスゴイ人たちと記念写真に写るなんて許せない!と思うと思います。サッカーを全く知らないオッチャンがCR7やメッシと記念写真に写っていたら、ボクだってムカつくと思うから。でも、囲碁を広めるための仕事をしたから一緒に写ってもらえたわけなので、許してください。

【追記】ほんとはこの話をしたかった。選手のスピーチで、この4人は世界のトップ4であり、ライバル同士でもあるのですが、決戦の前夜、試合会場のある渋谷セルリアンタワー近くの居酒屋に4人で行ったそうなんです。ペア碁の世界大会は日本、中国、韓国、台湾だけでなく欧米のチームも参加する大会です。世界の国と国が政治で争っているけれど、こういう「ルールのある戦い」でしのぎを削りあう人たちは、お互いをリスペクトしているし、仲良しだったりする。平和って、こういうことなんじゃないかと思うのです。まさに「ケンカはやめた。ペア碁で戦う。」だなと、そのスピーチを聞いて思いました。

まだ60才

2017年10月3日。中村禎、60才になりました。
5才の時に父と別れ(思えば人生の12分の1)
40才の時に母と別れ(思えば人生の3分の2)

親孝行しきれていない自分がいます。

『親はなくとも子は育つ』とはいうものの
人は誰も一人では生きられません。

今まで出会ったすべての人たちのおかげで、
今の自分があるのです。

いろんな人からいただいたご恩を、
少しでも返していける人生にしたいと思います。

ボクを名前で呼んでくれるすべての人たちに、
ありがとうございます。

生まれて初めて60才になって
そう思う、10月3日です。

55分経過 (55才)
56年見てきた右手 (56才)
1957年10月3日 (57才)
勝手に新記録 (58才)
ただいま59%(59才)
まだ60才(60才)

柳西中学サッカー部


【柳西(リュウセイ)中学サッカー部の思い出】
45年くらい前に通っていた中学校。当時の木造の校舎はすでになく。だけどサッカー部で練習していた土のグラウンドはそこにありました。中学の同窓会に出席するため門司に帰りました。

卒業アルバムにサッカー部は写っていません。ボクらはサッカー部担当の先生の指導に納得できず、全員で退部したから。

なんでこんな写真?と思うでしょ。ボクにはサッカー部の思い出の川なんです。画面の左側がグラウンドで、シュートをふかすとネットを超えて向こうの家に当たって、この川にボールが落ちるんです。(その時はこんな白い柵はなかった)下級生の時はいつもこの川にボールを拾いに下りてました。当時はドブ川でした。このグラウンドでサッカーをしていたんだけど、志し半ばで退部してサッカーができなくなった。そのせいか。59才になったいまでもボールを蹴っている。そうだ、あの頃の続きをやっているんだなと思ったのです。