1988年。サン・アドのコピーライター中村禎くん(当時30才)は悩んでいた。若くして東京コピーライターズクラブの最高新人賞を獲ってしまった中村くんは、周りからは順風満帆のように見えていたかもしれませんが、実際本人はメチャメチャ悩んでいたのです。「中村君、売れっ子だねぇ。忙しいでしょう?」と言われるたびに困っていました。だって全然忙しくなかったから・・・。同い年のコピーライターたちもぼちぼち活躍し始めていた頃。サン・アドに入ったからには30代前半で独立してフリーのコピーライターになる、というのが当時の通常ルートでした。新人賞を獲って、ブレーンやコマフォトなどの業界誌にも取り上げられて「期待の新人」のひとりではあったものの、本人は焦っていました。「まだまだ全然経験が足りない。こんな状態ではフリーなんてとても無理だ。もっと仕事がないものだろうか」と思っていた30才。会社はなにも仕事をくれない。待っていても何も変わらない。そう思って自主プレゼンをひとりで考えたりする焦る日々が続いていました。サッカー選手も試合に出なければうまくなれない。試合に出ないとコンディションはどんどん落ちる。コピーライターも同じだと思っていました。そんなある日・・・。
電通のクリエーティブ局長だった岡田耕さんから食事に誘われました。岡田さんはコピーライター中村青年が前職のJWトンプソンの営業だったときに通っていた、コピーライター養成講座専門クラスの先生でした。「わーい、ご馳走してもらえるなんて、ラッキー!」と気楽な気持ちで待ち合わせのホテルに行きました。今はもうない銀座東急ホテルだったかな。「中村君、電通に来ない?」・・・・想像もしてなかったことを言われたのです。
正直、悩みました。サン・アドを辞めるときは独立する時だと思っていましたから。しかし、当時の中村くんは、「なんか、フリーの時代ではないような気もするなぁ・・・」とも感じていました。このままサン・アドで自主プレして経験を積めるのだろうか。このままサン・アドにいてもADナガクラくんと組める仕事は年に1回あるかないかだ。もし電通に行ったらたくさん仕事があるのだろう。その仕事をサン・アドの人たちとやったほうが早いんじゃないだろうか。いろいろ悩みながら親分に相談したのです。親分も即答はしませんでした。一緒に悩んでくれました。仲畑さんと差しで飲んだのはあれが最初だったと思います。パレスホテル地下の高級鉄板焼きの店で悩む、中村禎30才、仲畑貴志40才。いろいろ話して「電通なら、ええかもな」そう言ってくださった。そして、決心したのでした。(つづく)
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