続けるコツ

短パンにリュック。ポケットの飴なめながら、区民体育館プールの帰り道。
ささやかな幸福感。まるで夏休みの小学生だなぁ、と笑えてくる。
左膝痛をなんとかするために始めたプールトレーニングも、半年以上続いている。
物事を続けるためには『友だちに報告しながら、やるのがコツ』と本で読んだ。
だから、ここに報告します。

8月6日に思うこと

子どもの頃、広島の事実を伝えるアサヒグラフが家にあった。親に見せてもらったが怖くて怖くて、二度と見れなかった。

昨年初めて広島の平和記念資料館を訪れた。もっと早くに行くべきだったと思うと同時に、全世界の人が来るべき場所だと思った。

東京オリンピックより、広島や長崎でオリンピックを開催して、世界の多くの人に平和資料館に見て欲しい。

ボクの病院


昨年9月頃のフットサルで、以前からやや気になっていたヒザの痛みが自覚されるようになりました。バンテリンなどを塗り、テーピングをしていつものバッカーノ・フットサルに参加するも、練習後、ヒザが熱を持つようになり、腫れてきた。歩くのは大丈夫なんだけど、階段の昇り降り(特に下り)が痛む。こりゃダメだ、というわけで整形外科に。ヒザの水を抜く注射をして、2週間に一度のヒアルロン酸注射6回、赤外線で温めて圧迫して血流を上げるリハビリを続ける。4ヶ月通うも、回復している実感なし。

図書館で本を読む。何冊も読む。膝痛(変形性膝関節症)は高齢者は必ずなるもの、と書いてある。いろいろ学習するうちに、これは足の筋肉をつけるしかない、膝を筋肉のサポーターで守るしかない、という結論に至りました。


プールでの水中トレーニング。まずクロール、ビート板を使ったバタ足(進まないんだ、これが)、水中片足ジャンプ、水中キック、水中サイドステップ、水中バックステップ、水中ダッシュなど、とにかく地上でやると負荷がかかりすぎる運動を水中でやる。これを週に2回。自分の体を再構築するわけだから、リハビリ病院に治療に通っているようなものです。幸いフリーエージェントなものですから、自分の体のための時間を最優先させてスケジュールを組みます。本社ビルの修繕ですからね。最初はクロールだけでも膝に痛みがあったけど、水中片足ジャンプでも大丈夫になってきました。

さらに、FCバッカーノのメンバーで麻酔科の女医でもある#71オグーから、VCSスポーツジェルを薦められ、筋トレマニアのサッカーファンからDNSのプロテインと筋を鍛えるJOINTという錠剤を薦められ、即実行。効いてくれよ〜効いてくれよ〜とジェルを塗り、届いてくれよ〜届いてくれよ〜と錠剤を朝昼晩6錠計18錠を飲む日々。


ようやく最近はテーピングをしてサポーターを巻いて、フットサルに復帰できました。歳をとるほど筋力は落ちてくる。老人が背中を曲げてヨボヨボ歩くのは筋力が落ちるから。そうならないためにも、筋トレはこれから一生続けていかないといけないのかもしれません。

足の筋肉を鍛えるために、体育館のプールに通う。フットサルでゴール決めたいから、体育館のプールに通う。よし、今日も行くぞと立ち上がる。筋肉を鍛えているんですが、実は、自分の「意志」を鍛えているのかもしれないなと思いました。

(なぜこんな「早い話が自慢話」のようなことをブログに書くのか。それは「公表」することで、三ヶ月坊主になることを防ぎたいからなのです。これからもずっと続ける覚悟の表明でもあるのです。サボっていたら笑ってやってください)

自己ベストの更新


1999年2月26日、新橋のPePeというイタリアンレストランに集合しました。まだフランスW杯の熱が冷めずにいた頃、F.C.BACCANOは設立されました。その日にはまだ、チーム名も何も決まっておらず、ただ、サッカーチームをつくろう、とだけ決まったのでした。

最初の練習は神宮外苑フットサルコート。当時はフットサルボールという専用のボールがあることさえ知らず、5号球のサッカーボールを持って行ってたなぁ。あれから19年『ケガをしない、楽しいフットボール』をモットーに、ずっとボールを蹴り続けてきました。


2018年2月26日、偶然にも同じ日にコートが取れて、仲間とフットサルができました。小学校1年からサッカー始めて、中学、高校、大学とサッカーやっても16年。それより長い19年。すごいと思います。一緒に遊んでくれる仲間に感謝です。


個人的には、6ヶ月前に左膝を痛めて、ずっと治療や筋トレなどに励んできて、なんとかこの日にボールを蹴りたかった。そして6ヶ月ぶりにゴールを決めることができた。バッカーノ最年長ゴール記録に並びました。ひとりうれしさを噛み締めながらの帰り道、「そうだ、これは、自己ベストの更新なんだ」と思いました。若い人は「そんなにうれしいことなのか?」と思うかもしれませんが、何歳までできるか限界が近づいている自分にとって、この記録はとても大事なことなんです。60歳と5ヶ月目のゴール。最高っす。

40代で始めたバッカーノ。そういえば同い年のタツと「何歳までできるだろうね。60くらいまでは蹴りたいね」と昔、話していたなぁ。二人で自己ベスト更新し続けますので、アシストお願いね。

山田先生の手書き文字


中学の時の担任、山田弘司(ひろし)先生は、当時まだ30代前半の若い体育の教師だった。紺色のVネックのウインドブレーカーで、裾が細くなっているランニング用のジャージに、いつも両手を入れていた。(ポケットに、ではなくウエストのゴムの内側に手を入れていたように思う)手より先に蹴りが飛んでくる怖い先生だったけど、みんなから好かれている先生だった。フェアで正直で真っ直ぐな先生だったからだと思う。

昨年の8月、北九州市門司区で柳西(リュウセイ)中学卒業生の還暦同窓会が催された。中学3年生が60才になるのだから山田先生はもう70代後半なのだろう。何度か重いご病気で入院されていたそうだが、『あの世から「まだ来るな」と言われたんじゃ』と笑っていた。同窓会でお会いして、コピーライターとして書いた本を贈り、読んでいただき、一緒に写真を撮り、その後何通か手紙のやり取りをさせていただいた。

『早いもので同窓会から半月経ってしまいましたネ。本当に楽しい会で時間が止まって欲しいと何度も思った』と葉書をいただいた。同窓会のとき、別の中学での教え子が東京代々木でレストランをやっているから行ってみなさい、と薦められた、その詳しい話が書いてあった。家人の誕生日にそのレストランに行き、オーナーの方と山田先生の話をして笑い合った。その報告をしようとした時、山田先生が今年に入って療養のため再入院されていると知った。

先生を励ます意味で手紙を書いた。「ボクは今、フットサルで膝を痛めているので、プールで泳いだり筋トレしたりしています。60才になり、この体で生きていくので人間ドックや大腸内視鏡など点検・整備してやってます。山田先生も、東京オリンピックのマラソン見るまでは頑張ってもらわないと(笑)」と書いた。筆まめな山田先生から返事が来ない。病床でまだ書く元気はないのかも、と思っていた。ふと昨夜、机の上に置きっ放しになっていた、山田先生からのハガキに目がいって、ああ、返事がないのはまだ元気じゃないのかもなぁ、と思った、その翌朝。

柳西中学の同級生からメッセージが届いた。『昨夜23時33分、山田弘司先生がご逝去されました』昨夜、このハガキに目をやった頃の時間だ。山田先生がボクのことを思い出してくれていたのかもしれない、と思った。

ボクは、人が亡くなった時、しばらくはその辺を飛び回っているんじゃないかと思っている。魂は肉体からは抜け出てしまうから、その分、何処へでも飛んでいける。会いたい人に会いに行ったりできるんじゃないかと思っている。行けるんだけど、話せないし触れもしない。だけど見えてるし聞こえてると思っている。

電報を送ったり飾り花を送ったり会社名や役職名だけの看板を送ったりするのではなく、目を閉じて、山田先生のことを思い出すことが一番の供養だと思っている。九州の方角に向かって正座して黙祷。山田先生、ありがとうございました。

『・・・時間が止まって欲しいと何度も思った』という手書きの文字に、胸が詰まります。

仲人はやらないよ

写真はその9代目が卒業記念で作ってくれた短冊ポストイット

中村組のOBが「禎さん、ご報告がありまして」と妙に畏まってやってきた。「実は今度、結婚することになりまして。彼女を紹介したいので今度お食事する時間をいただけませんか」という。そりゃ、おめでとう。と、土曜日のランチの約束をした。

奥さんになる人とその彼と3人で会う。ん? もしかして仲人とか頼まれるの?それはダメだよ。それなら行くのはイヤだなぁ、と確認したら、そういうことじゃないという。それならいいや、と出向くのだが、何か違和感があった。なんでわざわざ彼女を紹介するのだろう?と。

ああ、もしかして、奥さんになる人。ボクも知ってる人で、ビックリさせようとしているのかも、と思った。誰だろう?彼の同期か?もしかして、OBの先輩か?後輩か? そういう心の準備をして、表参道のおしゃれな和食屋の階段を降りていった。

『あ!やっぱり!笑』だった。二人は中村組9代目の同期だった。そういうことか!そんな気もしたんだけど、この組み合わせだとは想像つかなかったね。

コピーライター養成講座専門コース中村組同士で結婚するカップルはこれで二組目だ。中村組のOBだから、人柄は保証します。傘の先っぽを振りながら歩くなんてしないし、電車の中でリュックを背負ったままで人の迷惑になることなんてしない。口喧嘩になりそうなときも、相手は何を言いたかったんだろう、と思い至れるし、自分がされたら嫌なことは人にしないし、自分がされてうれしいことを人にしてみるし。

コピーのテクニックを教える講座じゃなく、人として幸せに生きていくためのヒントを教えたられたとしたら、最高です。ずっと仲良くシアワセにね。

60歳は、いま何時?


年齢を重ねていくと、誰しも「寿命」を考えると思います。何歳まで生きるのだろう、と、考えても仕方のないことを考えてしまう。そして、1日24時間のうち、いま何時くらいだろう?と考える。日付が変わる24時で一生を終えるとしたらいま何時くらいなのか。日が暮れて、夜になって、ああ、もう1日も終わってしまうのかと寂しくなるから、そういう計算はするまいと思っていました。

でも、「ん!」と思うことがあったので、算出してみました。人生90年としたら60歳は3分の2。24時間でいうと16時。夕方の4時ですね。人生85年で計算すると、24(時間)÷85(年)×60(歳)=16.9411765(時)約17時です。夕方の5時。そう、『5時から男』(←知ってる人は知っている)の時間です。そろそろ仕事を片付けて、待ち合わせをして、おいしい食事とおいしいお酒が待っている時間。好きな人たちと過ごせる楽しい時間の始まりです。

40代はもちろん、50代の人もまだ勤務時間中。まだシャンパンで乾杯するには早い時間でしょ。まだまだ頑張らなきゃいけない、いろいろ我慢しなきゃいけない時間帯。(頑張って!)

これから深夜24時までの時間を、フルに楽しむために大事なのが「体調」です。これから大好きなフットサルして、おいしいもの食べて、お酒を飲んで楽しむわけだから、途中でケガしたり、気分が悪くなったり、眠ってしまっては意味がない。そういう意味で、体のメインテナンスが大事です。

まずは左膝を治す。大腿四頭筋の筋トレ、ストレッチ、プールトレーニング。そして人間ドック。脳のMRI 、血液の腫瘍マーカー検査。そして大腸内視鏡検査。この1957年製の身体を点検・整備して、夜中の24時まで突っ走りましょう。

「長生きしたんが悪かったんかのぅ」

高齢者が古いアパートの建て壊しで退去を迫られ、転居先がなくて困っているという報道番組を見た。身寄りのないお年寄りの一人暮らしには、なかなか部屋を貸してくれないのだという。「長生きしたんが悪かったんかのぅ」という呟きが重い。みんなが長生きしたいと思っているという時代から、長生きしないほうがいい、という時代になっていくのか。超高齢化社会とはこういうことなのか。

2025年問題という言葉があるのを知らなかった。2025年には団塊世代が後期高齢者(という言い方は好きじゃないけど)75歳以上になる年だという。そんな中、朝日新聞の記事が目に留まった。「いかに最期を迎えるか 自分なりの死の哲学」という記事。先日逝去された評論家の西部邁さんのことに触れられていた。彼を自裁死に至らせたのは、家族に介護上の面倒をかけたくないという思いからだったかもしれない、という。

考えさせられる。いや、考えなくてはいけない。そう思って、昨日の新聞を取り出して切り抜いた。そしたら、その裏に、「すごい…」の広告が。広告を裏にして折りたたんだ。

二人の中村くん

中村裕一朗。みんなからは「裕さん」と呼ばれていた背番号5のセンターバックだった。中村禎。タラシと呼ばれていたボクは背番号10。ふたりとも中学時代からサッカー部で、試合で対戦したこともあった。裕さんは風師(かざし)中学で、ボクは柳西(りゅうせい)中学だった。

高校に進学し、ふたりは同じ高校になった。当時の門司高校には(公認の)サッカー部はなく、学校のグラウンドが使えず、「同好会」みたいな立場で、関門海峡を見下ろす山の中腹の空き地で練習していた。ゴールネットもない、木の柱を立てただけの空き地だった。(今思うと、ブラジル的ともいえる)

そんな懐かしい「裕さん」とFBでつながった、ら、裕さんがこんな写真をアップしていた(上のバイクの男) ホンダCBR400エンデュランスF3、ヘルメットはSHOEIのワイン・ガードナーモデルじゃん。なぜ、それがすぐわかったか。それは、ボクが下の写真だったから。1986年頃の写真。ボクもホンダCBR400に乗っていて、永福町にあったWhite というバイクのカスタムショップでオリジナルカラーにペイントしてもらい、SHOEIのヘルメットを、エディ・ローソンモデルに塗装してもらった。

このバイクの二人は、一緒に走ったことはないけれど、中学高校の同じ土のグラウンドでは走っていた。なんか、同い年にしかわからない話ですいません。もう何十年も会っていないサッカー部のチームメイトとの、この偶然に感動しているもんですから。

本社ビル60年点検


本社ビルの60年点検。厄除けよりも人間ドック。生まれて初めて脳のMRIなどもやります。半分機能してませんよ、とか言われたらどーしょ。

脳のMRI初体験。胸部CTより狭く、頭を固定され、パイプの中に入っていく。グワーングワーン大きな音がする。棺桶に入れられて火葬される時は、きっとこんな感じなんじゃないかと思った。意識はあるけど身体が動かない状態。