脳ミソを混ぜる

ハッカソン看板

たまたまブラジルW杯のツアー説明会で知り合ったサッカーファンの人から、「中村さん、W杯興味あるでしょ? ちょっとアイデア出してくれません?」とfacebookメッセージで誘われて、「あ、いいっすね」と軽く返事をしたら、タイヘンな場所に首を突っ込むことになってしまった。「ハッカソン」って、なんか聞いたことはあったけど、よく知らなかった。(つまり、何も知らなかった)それは、朝日新聞が主催したもので、

【データジャーナリズム・ハッカソン】『朝日新聞社から、災害・気象、社会保障、開発・経済、スポーツ、文化などの各分野の記者が参加。社外から、プログラマーやデザイナー、データ分析などのスキルを持った方々が参加。記者の問題提起の後、チームをつくり、各チームで活発な議論が繰り広げる。ハッカソン本番は3月1、2日に開催される』というイベント。この3月1、2日に来てください、という誘いだった。

ハッカソンとは、『プログラマーやデザイナーらが集まり、短期間で集中的にアプリケーションやウェブサービスなどをつくるイベント。今回のハッカソンは、データを活用して社会問題を分かりやすく伝えるコンテンツやアプリケーションを作る』と後で知ったのだった。ボクはただ「W杯の面白いアプリをつくる」とだけ聞いていたので、案をもって気楽に参加したのだった。

ハッカソンボード

そしたら、2日間でアプリケーションを完成させて5分のプレゼンをして審査される、というものだった。

結論からいうと、ものすごく刺激的で楽しかった。すごく疲れたけど。

新聞記者、プログラマー、エンジニア、デザイナー、プランナー、そしてボクみたいなただのサッカーバカな広告屋が混ざり合って、2日間。実際に動くアプリをつくってプレゼンする。なんというスピード感。ふだんの広告のプレゼンとは次元が違った。しかし、超短時間という制約が面白い効果を生むこともわかった。

まるで、いろんな楽器を担当するスタジオミュージシャンが集って、こんな曲がいいか、あんな曲がいいかをディスカッションし、基本メロディが決まったら、どんどん自分のパートを演奏し、録音し、データ化し、クラウド(この場合はfacebookグループ上)に上げて、みんなで共有し、それを使って自分のパートを完成させ、最後は5分という時間のプレゼンに入るようにリハーサルをする。楽器はみんなノートパソコン。(ボクはMacBookAirと手描きの併用)そして、本番。ライブで演奏する。そんなカンジだった。

ハッカソンデスク

ボクたちのチームは自信があった。グランプリ確実だと思っていた。しかし、結果は無冠だった・・・。しかし、ボクらの演奏した曲はみんなの心に爪痕を残したはずで、グランプリをとれなかったのは、このイベントの主旨からちょっとずれていただけだ。ボクらが2日間(実際は3日間)でつくった曲は、必ず世界でヒットするはずだ、とマジでまだ思っている。

この『いろんな得意分野をもった人たちが混ざり合って新しい何かを(短時間で)つくりあげる』ということに、すごく可能性を感じた2日間だった。

オリンピックの魔物

冬季オリンピック。女子ジャンプ。メダルを期待されていた高梨沙羅選手。そのコーチが松岡修造のインタビューに応えていた。「オリンピックはやはり他の大会と違うんですかね?」という質問に対して、「(沙羅さんは)いつもはそんなこと言わないんだけど、今回は『メダル獲れなかったらどうしよう』と言っていたんです。ふだんは、そんなこと言わない子だったのに」と。オリンピックに魔物がいるとしたら、ソチの会場にいるんじゃなく、日本にいて「応援してるよ」「がんばってね」「メダル確実だ」などと過大な期待を背負わせる無責任な声とマスコミの加熱した取材なんじゃないか。オリンピックの魔物は、われわれ日本人なんじゃないか、と思った。

もしボクがオリンピックの日本選手団の団長だったら、日本を出発する前の記者会見でこう言う。「全員金メダルを目指してベストを尽くします。メダルは無理かもしれない選手さえもトップを目指してベストを尽くします。だから、マスコミのみなさんも、選手たちに集中する時間とリラックスする時間をあげてください。一番メダルが欲しいのは辛い苦しい練習をしてきた選手たちです。選手たちは0.01秒、0.01点の世界で戦っています。どうか、試合が終わるまで選手への取材はご遠慮ください。試合が終わったら勝っても負けても、取材には十分お応えしますから」と言う。

予言されてた香川と本田

マンUミラン表

香川がマンチェスター・ユナイテッド(写真左)へ、本田がACミラン(写真右)へ行くことは最初からボクはわかっていた。なんちゃって。

今日はFCバッカーノの初蹴りなんですが、着替えを準備していてビックリ。サッカーウェアの引出しに香川と本田がすでにいた!日本代表の両エースの移籍先をすでに予言していた!かのごとく、マンUとミランのユニフォームをすでにボクは持っていました。両方とも背番号21が売ってたから買ったのですが。

マンUミラン21

マンUの「フォルラン21」は、ウルグアイ代表のディエゴ・フォルラン。(こんどセレッソに来るらしい。柿谷にいろいろ教えてやってほしいな)フォルランが在席していたのはかなり昔。だからKAMOのセールで安かった。ミランの「ピルロ21」はイタリア代表、現在はユベントスのピルロ。ご存知のようにボクの背番号も21番なので21番のユニフォームはつい欲しくなるんです。

今日のフットサルは、本田も初ゴール決めたことだし、ミランの21番でいきます。寒いから上に着るからわかんないと思うけど。(というどーでもいい話でした)

国立競技場の女神

kokurituMegami

第92回サッカー全国高校選手権決勝。富山第一が星稜を延長の末3−2で初優勝を掴んだ。改修工事のため最後の国立競技場での決勝戦。サッカーの神様はやはり国立競技場にいたんだと思った。

前半、富山第一が押していたがPKで星稜が1点先制して折り返す。後半に入って星稜もいいカタチをつくり始め後半25分に2−0とリードを広げる。後半41分星稜のキャプテン背番号10番の寺村くんが交代する。準々決勝、準決勝で勝った後もはしゃがず、「自分たちの居場所はここではない、本田先輩(ACミラン)が行けなかった決勝に行くことだ」とチームメイトに声をかけるような冷静な選手だった。そんな精神的支柱を下げていいのか?と不安になった。監督の真意はわからないが、寺村くんは足の小指を骨折したケガもあり、他の3年生も使ってやりたいと思ったのか。

気になったのは交代のとき寺村くんがキャプテンマークを味方の選手にポイッと投げてピッチを後にしたことだった。みんなの寄せ書きの書かれたキャプテンマークをポイッとしていいのか、と思った。マジックテープ式のキャプテンマークは自分ひとりでは巻きにくい。副キャプテンの腕に巻いてやるくらい心を込めてもいいんじゃないか。その後、キャプテンマークを巻いた選手の腕がクローズアップされる。寄せ書きの書かれたキャプテンマークがめくれ上がって雑に巻かれていたように見えた。

キャプテンが下がり、1点差に追い付かれ、チームが浮き足立っていたことを表しているようなめくれ上がり方に見えた。そのめくれあがったキャプテンマークを巻いた選手のファウルでPKを取られ同点に追い付かれた。そんな精神論だけじゃ試合は決まらないとは思うんだけど、もし国立競技場にサッカーの神様がいたのなら、「みんなの気持ちのこもったキャプテンマークをもっと大事に扱わんかい!」と思ったんじゃないだろうか。

星稜は10番のキャプテンを下げた直後に1点返され、キャプテンマークを受け継いだ選手のファウルでPKを取られ同点に追いつかれた。富山第一は後半途中交代で入った高浪くんが1点を返し、キャプテンの大塚くんが重圧の中PKを決め手アディショナルタイムで追いついた。延長後半決勝ゴールを決めたのは、これも後半から投入された村井くんだった。サッカーの神様はやはり国立競技場にいたんだと思った。

勝ったチームは後半のアディショナルタイムまで負けていても諦めてはいけないんだと学んだだろう。負けたチームもその口惜しさを冷静に振り返って今後の人生のもっと大きな試合に勝ってほしい。いずれにせよ、すばらしい試合を見せてもらった。ありがとう。このすばらしい経験はきっと彼らの人生に大きく役に立つはずだ。将来の日本代表に入って欲しい。(富山第一の背番号3番の選手が特に印象に残った)

白いモレスキン

手帳ピンク3

あけましておめでとうございます。

2014年は、どんな言葉と出会えるか。どんな人と出会えるか。

どんな自分を見つけるか。どんな365日にするか。

ことしはこの白いモレスキンに書いていきます。

ことしも「ぶ厚い手帳」よろしくおねがいいたします。

コピーライター中村禎

ぶ厚い手帳の大晦日

大晦日公園

大晦日の善福寺川緑地公園にて

今年もあと数時間で来年になります。2012年の10月3日の誕生日からこっそりこのブログを始めて、2013年になって頃合いを見計らって公開し、今年の秋頃に自分のドメインに移行したりしてドタバタやっておりますこの「ぶ厚い手帳:コピーライター中村禎の場合」、読んでいただいている方々には、ほんとうに感謝の気持ちでいっぱいです。来年も書きます。どんどん書きます。ほんとうに思うこと、残しておきたいと思うこと、自分が憶えておきたい言葉などを、ぶ厚い手帳に書いていきます。またよかったら覗きにいらしてください。今年一年、おつき合いいただきありがとうございました。良いお年をお迎えください。コピーライター中村禎

2013年の手帳リアルなほうの2013年ぶ厚い手帳 お疲れさま

広い机と広い倉庫

Macintosh_LC_630

LC630」と聞いて懐かしいと思う人も多いんじゃないだろうか。1990年代前半の頃。「これからはゼッタイ中村くんにも必要になるから」と友人の北川くんに連れられて幕張メッセへ行ったことが始まりだった。MacEXPO、アップルコンピュータのパソコン、Macの展示会だ。インターネットの仕組みやMacで何ができるのかなど、北川くんは説明してくれるのだが、実はまだそんなに必要性は感じていなかった。ところがMacEXPOを見終わった帰りの電車の中で「う〜む、まだハッキリとはわからんけど、なんだか可能性があるように感じた・・・」という感想を彼に伝えた。当時の北川くんは広告のアートディレクターで事務所にMacが1台あった。15インチの一体型LC575だった。ボクから見たら「面白いゲームができるマシン」にしか見えなかった。しかも高額の。その後、彼の事務所にはPower Macが導入され大きな画面でデザインをするようになったのを見て、なんかカッコイイなと思った。

そして初めて自分で買ったMacがLC630だった。15インチのブラウン管モニターだったかな。中村禎はそのMacで何をするのだ? いま思うと、「何ができるのか」を模索していたんじゃないかと思う。しかしひとつすごいことをしたと思うのは、自分の名前の落款(中国でつくってもらった中村禎の印)をスキャンして、それをイラストレーターのベジェ曲線でカタチをつくり、データとして画像をつくった。それがいまのボクの原稿用紙などのマークになっている。イラストレーターのベジェ曲線を使いこなせるコピーライターはそう多くはいないだろう。今はもうできないだろうけど。(その画像は後日ご紹介します)

5440

2代目はパフォーマ5440という黒い一体型のMacだった。ある雑誌かなにかにこんな言葉があった。「インターネットにつながないパソコンなんて、ジャングルの中でフェラーリを持っているようなもんだ」 なるほど、と思った。このマシンではニフティサーブにつないでいた。でもまだダイヤルアップのピ〜ヒョロロロの時代だった。でもこの2代目のインターネットのおかげで、98年フランスワールドカップのブラジルvsモロッコ戦のチケットを、岡山の人から買うことができたし、「マウンテンバイク買い物計画」という掲示板をつくって、いろんな人から情報をもらったり、実際に日曜日の皇居でのサイクリングに参加したりできた。Macという機械が人と人をつなぐ道具になった。たしかこの頃会社でもMacが導入されてメールなどが普通になってきた時代だったんじゃないかな。(1996年〜2000年)

PowerBookpowerbook2

3代目はPowerBook G3だ。同じことができるなら、小さい方がいい。画面サイズが同じなら軽い方がいい。で、ブック型を家で使うようにした。この黒い躯体にアップルマークが浮かび上がるのがなんともカッコ良かった。このG3での思い出は、カンヌだ。2003年カンヌに行った時、持って行って日本の彼女(現在の奥さん)とメールのやり取りができた。ホテルの回線につないで、フランスの変換機なんかを使いながら。いま思うとずいぶん重いものを持って行ってたんだなと思うが、当時はぜんぜんそうは思わなかった。「海外でもパソコン使えて便利じゃん」だった。(2001年〜2006年)

 

MacBookPro1MacBookPro2

4代目は今思うと高かった。いままでで一番高かった。15インチのMacBookPro。 ここまでくるともうMacは生活の一部になっていた。インターネットがあり、SNSがあり、YouTubeがあり、Googleがあり。あ、そうそう。その昔、Macはよく壊れる、みたいなことを言われていた時代があったけど、でもボクにはそんなに困った思い出はない。このMacBookProは一度起動ボタンが戻らなくなったことがあったけど、銀座のアップルストアに持って行ったら無料でキーボード部分を交換してくれたし。昔はフリーズしたこともあったけど、そんなにイヤになるほどのことでもなかった。気がつけば、2007年から今まで、もう7年も使ってきたのか。スペックを見るともう相当時代遅れになっている。ハードディスクがいっぱいになってきて、動作が重くなってきた。持ち運ぶにも今の時代では重い。そろそろ交代してもいい時期かなと、5代目に至る。(2007年〜2013年)

MacBookAir1MacBookAir2

5台目ではなく、5代目。13インチのMacBookAir。これが出たときから次はこれだなと思っていた。7年も使っていた4代目とスペックを較べるのは可哀想だが、較べてみる。
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OS:X10.6.8 → X10.8.4
プロセッサ:2.33GHz Intel Core2Duo → 1.7GHz Intel Core i7
メモリ:2GB 667MHzDDR2SDRAM → 8GB1600MHz DDR3
HDD:120GB → フラッシュ512GB
重さ:結構重い → 1.35kg
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机の広さ(メモリ)が4倍に。倉庫の広さ(HDD)も4倍以上に。自分の仕事場がこんなに広くなったらいいなぁ。こんなに広くなったら、いろんなことできるなぁ。うん、やらなきゃなぁ。

 

継続はチカラ

体重記録

最初の一歩は2012年12月5日だったから1年間続けてきたことになります。体重を減らすため、毎朝毎晩体重を記録してきました。そして1年。70ウンkg台だった体重が60ウンkg台へ、約4.5kg減量しました。三日坊主にならず、我ながら良くやったと思います。続けられた理由を振り返ってみます。(順不同)【関連記事】パン禁止 Posted on 2012年12月18日

Simple DietというiPhoneアプリで記録して、グラフで経過を見ることができたこと。実際の記録は洗面所の体重計のそばに置いてある、オリジナルでつくった記録用紙に「毎朝起床後」と「腹ぺこで帰宅したとき」と「夕食後、風呂の後」にボールペンで記録。毎回iPhoneに打ち込むより書く方が早い。ある程度貯まってからiPhoneでグラフ化。それを励みにしました。

②友人がこのアプリの途中経過をfacebookで公表していたこと。おなじアプリを使いながら、ほぼボクと同じくらいの体重で頑張っていた。ライバルが頑張っているのを見てボクも続けることができました。(ありがとう塚本さん!)

③始めて半年で会社医務室の先生に報告し、褒められたこと。その時点で血液検査したら数値が良くなっていたこと。【関連記事】きれいな血液 Posted on 2013年6月19日

④ある日、体重計で「69.9」という60kg台の数字を見たこと。何年ぶりかに60kg台に戻れた。この体重計の10の桁に6という数字があったのか!というバカみたいな感動。たった100gなんだけど、69.9と70.0との差は合格と不合格の差くらいあるのです。

目標としてきた体重を下回ることはできたのですが、これからの目標は、満腹状態でそのラインを越えないようになりたい、かな。それと、ただ体重を落とすことだけが目的ではなく、もっと筋肉をつけることを目標にしたいと思います。最終的な目標は「血液をキレイに。血管を健康に」なのです。

体重グラフむむ、最近はあまり減ってきてないな・・・

結局。数字がどうだとか何kg減ったとかいうことも大事ですが、思い返してみると、「自分の意志で続けている」ということに満足感や充実感を得ていたんだと思います。やめようと思えばやめてもいい。誰からも怒られることもない。なのに続ける。ちょっとオーバーかもしれないけど、「敵」は自分の中にある、ということを実感しました。体重を減らすということより、自分の意志を鍛えているカンジです。(←あ、いいこと言ってる!)

シュルツさんの文字

snoopybook

スヌーピー展で改めて思ったのは、シュルツさんの書く「文字」がいいなぁ、ということ。この書体好きなんだなぁ。英文は日本語と違って26文字(小文字もいれても52文字)しかないから、書体として登録するのはカンタンなんだろうな。もうすでにあるのかな?「ピーナッツ101」とかいう書体としてw

よく見ると平ペンで書いているような太い部分と細い部分がある。とっても読みやすくて、なんともやさしい人柄がにじみ出ています。このピーナッツの登場人物たちの肉声ですね。そりゃそうだわな、絵を描いているひとがセリフも書いているんだから。だから、このシュルツさんの絵に日本語の明朝体なんかの吹き出しが入ったマンガはあまりおすすめできません。自分でいうのもなんだけど、ボクの手書きの字のほうがシュルツさんの絵にはゼッタイ合う気がします。

ミュージアムストアで購入したスヌーピー展のカタログに、その表紙をよく見ると、下書きの鉛筆の線が残った原画。チャーリー・ブラウンは最初丸を描いて清書するなんだな、とか。セリフの文字の部分にはガイドラインが薄く引いてあるんだなとか。こういう部分が見られるのはうれしいですね。

1956Doodle

1956年のこの下書きもいいんだなぁ。線が素直というか、余計な下心のようなものが一切ないピュアな感じがします。うまく描こうとか、上手に見せよう、褒められようという気持ちがちょっとでも頭をかすめたら、この線のイキオイはゼッタイ出ません。最初に描いた下書きが一番いい、という気持ちわかります。広告のラフでも、「例えばこんなカンジでさ」とサラサラッと書いたものが一番よかったりする。不思議なもんです。やっぱ自然体で書くのが一番なんだな。コピーもいっしょだな。

シュルツさんの手から

snoopymag1

スヌーピー展に行ってきました。「中村はそんなにスヌーピーが好きだったのか?」といわれると、そうでもなかったんですが、今年のぶ厚いモレスキン手帳をスヌーピーバージョンにしたこともあり(とはいえ好きなのはチャーリー・ブラウンのほうなんですが)原画を見たくて行ってきました。こういう展覧会には、いままで出不精だったのですが、行ってみて、やっぱり良かったと思います。自分にいろんなものを見せてやることは大事だと思いました。

ボクが一番見たかったのは「原画」です。どのくらいの大きさで、どんな筆記用具で、どんな紙に描いていたのか。完成品もすばらしいのですが、下書き(下描き)というか、悩んで描いている様子を見たかった。展示の中の映像でシュルツさんがメモ帳にサラサラッとチャーリー・ブラウンを描く様子が映し出されていて、見とれてしまった。ペン先から魔法のようにチャーリー・ブラウンが現れる。この線は世界中でシュルツさんにしか描けない線なんだ。そう思うと、「その人にしか描けないもの」ってすごいなぁと憧れます。

スヌーピー下書き

展示の中に彼の言葉がありました。

「漫画家にとって根本的な問題は、
 いかにしてアイデアを思いつくかどうかなのです。
 チャールズ・シュルツ」

その下に解説がありました。
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シュルツが漫画に取りかかる際には、ウォーミングアップとしてノートに鉛筆でスケッチを描くことがよくありました。ドゥードゥル(いたずら書き)と呼ばれるこうしたスケッチを描くとアイデアがどんどんわいてきたからです。もっとも、完成した漫画がスケッチとかけ離れたものになる場合もありました。シュルツは作品の仕上げにインクで描く細かい作業よりもスケッチの生き生きとした感覚を好み、それらを「おそらく自分で描いたうちでも最高の出来」と呼ぶほどでした。

それにもかかわらず、毎日仕事を終えるときには決まってほかのゴミと一緒に捨ててしまいます。幸運なことに晩年には、彼の秘書がゴミ箱から丸められたスケッチをひそかに取り出して家に持ち帰り、アイロンでしわを伸ばして、後世に残してくれました。
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ゴミ箱から

アイロンかぁ。いい話だなぁ。

人間の小さな手。5本の指。1本のペンと紙。ただそれだけでいろんな「線」が引ける。その線がチャーリー・ブラウンになったり、日本語の言葉になったり。手でできることって無限なんだな。電源もなしで。