短いニュース

さくら銀行短いニュース篇

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短いニュース

1992年 さくら銀行 
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「さくら銀行」はもう、ありません。その昔、「太陽神戸三井銀行」が名前を変えて「さくら銀行」になった時の広告です。(その後、合併を繰り返して、今の何銀行だっけ?みずほ?)

銀行がこんな名前にするなんて、きっと何かあるはず。きっと新しいことをやりたいはずだ、と思いました。ボクたちの提案をすごく理解してくれて採用してくださいました。ふつうの銀行広告では言えないようなことも、「銀行の固いイメージも変らなきゃいけないと思います」と、当時の担当者の方の英断でいろんなものがカタチとなりました。

まずこれは、何本かつくった15秒の一発目。ペンで文字が書かれて行く。シャカシャカという音とともに、文字が現れる。「太陽神戸三井」と書くのに7.82秒。「さくら」と書くのに1.37秒。昔の長い名前から短くなって、ただ、「速い。」というナレーション。銀行業務の迅速化を連想するようなCMをつくりました。プランナーは安西俊夫さん。アートディレクターは沢田耕一さん。そしてコピーライターのボク。テレビの企画は3人で出し合って、安西さんがチョイスしてくれました。

午後は紅茶と、決めとりまス。

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午後は紅茶と、決めとりまス。

キリン午後の紅茶新発売

1988年 キリン
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電通に移籍した頃の仕事でした。コピー年鑑には掲載されませんでしたが、気に入っている、というか思い出のコピーです。

『午後の紅茶』というナイスなネーミングはキリンの商品担当(当時)の江部るみ子さん。商品事業部(当時)のクライアントは首藤由憲さん。色黒で野性的な風貌の、関西出身の兄貴というカンジ。その首藤さんが最後の「ス」がカタカナなところを気に入ってくれました。コピーとしては「午後の紅茶です」としか言ってない。でも、いい商品名だからそれでいいと思っていました。午後の紅茶と申します、という挨拶にちょっとキャラ付けできたらいいと。ビジュアルは缶のパッケージにある貴婦人がでてくるんですが、その人が「決めとりまス」って言うと面白いかなと。この時代はこれでよかったと許してくださいw

この仕事で出会った江部さんは現在ブランド戦略部部長。首藤さんは現在キリンビバレッジの社長です。もうお会いできないかもしれません、偉すぎて。昔、お仕事をご一緒した、くらいで新しい仕事がくるほど甘くはない世界なのですねw

 

ソニーは働く。私はラク。

91ソニービジネスクラス

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ソニーは働く。私はラク。

Sony Business Class
面白ければ仕事もアソビ。ソニーの情報機器。

1990年 ソニー
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電通に移籍しました。サン・アドから電通に移籍して数年調子が出ませんでした。新しい環境に馴染めなかった。新人賞を獲った1982年から毎年コピー年鑑に掲載されていた連続出場記録も途絶えてしまった。正直ショックでした。

このソニーの仕事は、今年定年退職されたコピーライター渡辺悦男さんがCDをやってくれた、ソニーの雑誌マルチ広告。これが電通に移籍して初めてコピー年鑑に掲載されたコピーです。救われた思い出のあるコピーです。

91暗記力はお金で買った

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暗記力は、お金で買った。

Sony Business Class    電子ブック DATA Discman
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91遊びの予定

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遊びの予定も必ず守る。

Sony Business Class    電子ノート PalmTop
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91文章上は

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文章上は、礼儀正しい男なのだが。

Sony Business Class    ワープロ PRODUCE

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いいコピー書かなくちゃ、いい仕事しなくちゃ、とばかり考えて焦っていました。もがいていました。いま思えば、仕方なかったと思いますが、当時の自分に「焦ってもいいことないよ。素直に正直に書けばいいのよ」と言ってやりたいです。

 

ちょうちん袖のボディコピー

ちょうちん袖

調子に乗って新聞10段とボディコピーもご紹介します。29才の頃書いたコピー。ほとんど進歩してないと思います。いまでもこんなボディコピー書きそうです。

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ちょうちん袖の夏。

さて、ポロシャツの広告です。鹿の子編みにちょうちん袖。そのオーソドックスでさりげないスタイルと、なんだかいいねという軽い気分の親しみやすさが人気の秘密かもしれません。音楽でいうと、流行歌じゃなくてスタンダードナンバーのようなものかな。ちゃんとした夏服、ポロシャツです。いま西武では、ポロシャツの定番をズラリと揃えて、夏を待ちかまえております。●ポロ8,800円(老若男女を問わず根強い人気。写真のポロは、ポロのポロです)●ラコステ7,500円(この夏復活しそうな、ポロシャツの先駆者)●チャップス5,900円●ザ・マーケット4,900円●ザ・マーケットEX4,900円 いずれの商品も綿100%です。●池袋店・有楽町西武・船橋店・大宮店・所沢店・筑波店 各4階紳士服売り場●渋谷店-B館地下1階・1階・2階紳士服売り場●八王子店-2階紳士服売り場●話は変わりますが6月21日の日曜日は全国的に父の日ということになっております。西武では、父の日袋をご用意しました。お父さんへのポロシャツなどを包むのにちょうどいい、かわいいライオン親子のイラスト入りの父の日袋です。
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残っていたデータに、ボディコピーが読めたので書き起こしてみました。懐かしかった。ただその記録です。

ちょうちん袖の夏。

ちょうちん袖B全

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ちょうちん袖の夏。

1987年 西武百貨店ポロシャツ
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コピーをたくさん書いて、この仕事のADナガクラトモヒコ氏に見てもらった。書いたコピーを全部見せると、ナガクラくんは「いいねえ。いいのイッパイあるねぇ。で、中村くんはどれをやりたいの?」と言った。ハッとした。今までコピーを書いて、「誰か」がいいねと言ってくれるコピーを選んでいた。自分で「これがやりたい!」と強く思ったことはあまりなかったし、「誰か」がいいねと言ってくれるだけでホッとしていた。「ちょっと待ってて」とデスクにもどり、もう一度読み直して、1本を決めた。

当時、自分の書くコピーになにか閉塞感を感じていた。「ああ、自分がモッタイナイ」「楽しい仕事は、ラクじゃない」「プロの男女は、差別されない」「働いているだけでは、プロにはなれない」、、、気がつけば、ほとんどが「ない」で終わっている。「・・・ない」という否定形は確かに強いんだけど、そればっかりかよ、と気になっていた。このポロシャツのコピーにも「ちょうちん袖じゃなければ、ポロシャツじゃない」なんて下書きもあったと思う。そういうコピーに、もう飽きてきていた。なんかこう、ぽか〜んとしたコピーを書いてみたかった。そこで、『ちょうちん袖の夏。』をナガクラくんに持って行った。

新聞10段と店内に貼るB全ポスター。B全ポスターをナガクラくんの席で原寸でレイアウトしていた時。その頃は『版下』に『写植』を貼って『入稿』していた時代。ボクは、ナガクラくんが席を外している隙にコピーの紙焼きを勝手に120%とか150%に拡大して、知らん顔してその版下の上に置いたりしていた。笑ってもらえればそれでいいし、万が一採用されたらラッキーってカンジだった。席に戻ったナガクラくんは「もー、中村くん、またやったでしょ」と見抜く。しかし、しつこく繰り返した。ヤケクソでもっとデカく拡大したコピーを置いたら、写真の下からはみ出てしまった。あわてて写植を切って2行にした。こりゃ、バレるわ、と思ったら、ナガクラくんは「この字切りも面白いね」と採用になったのだ。

この頃は楽しかった。このB全ポスターの一番下に(新聞原稿には上に)奇妙な模様のラインが入っているでしょ。これは、ナガクラくんのデスクのカッティングシートに張り付いていた他の仕事の残骸だった。それがたまたまこのレイアウトにくっついて、あれ?これ、面白くね?となったのだった。こういう『遊び』が仕事の中にあった。デザイナーとコピーライターで、あーでもない、こーでもないと原稿を作っていた。パソコンの画面の中でいじるのではなく、原寸で切ったり貼ったりしながら、遠くに離れて眺めてみたり。ひとつの原稿をじっくり作ることができた。体温があった。

しあわせな仕事。クライアントも喜んでくれたし、憧れのADだったナガクラくんとの仕事ができたこともうれしかったし、コピーの書き方の新たな経験もできた。なによりうれしかったのは、ふだんあまり褒めてくれない親分の仲畑さんが「あれ、ええね」とポツリと言ってくれたことだった。

(↑上の写真はレイアウトが決まったときに撮ったポラです。まだコピーがガタガタですが、全体の雰囲気は完成していました)

いい仕事をした人

いい仕事をした人———————————-
いい仕事をした人が、
いい顔になるのは、なぜだろう。

1986年 とらばーゆ 
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演出はない写真、だけどディレクションはある写真。「こういう顔をしてください」「こういう顔を撮ってください」ではなく、練習後の表情を狙いたい、という意図をカメラマンに伝える。もしかしたら、「こういうコピーを載せたい」と先に伝えていたのかもしれません。いや、でもボクの場合、コピー引っ張るほうだからそれはないかな。あとでコピーを考えたんだろうと思います。

コピーに関して。この「・・・・なぜだろう。」という言い方はもう使い古された感がありますね。こういう言い方は、当時流行っていたのかもしれません。若い人はもう、真似しないほうがいいかも。何年か経って、世の中が忘れた頃に使いましょうw

仕事は娯楽です。

仕事は娯楽

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私の場合、仕事は娯楽です。
ちょっと、大変ですが。

1986年 とらばーゆ 
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CMは「プロの男女」と「働いているだけでは」の2タイプ。ほんとはそれだけで良かったんですが、きっといい写真がたくさん撮れるはず、と自主提案のためにコピーを考えていました。そのコピーといい写真があれば、きっと中吊りとかで使える、と思っていました。練習風景を撮影させてもらって、その写真にコピーをつけていきました。このコピーは、ま、自分の事なんですけどね。好きで選んだ職業ならどんな職業でも、同じなんじゃないかと思ったんです。

働いているだけでは、プロにはなれない。

働いているだけではCM

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働いているだけでは、プロにはなれない。

1986年 とらばーゆ 
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お手本としていたコピーがありました。秋山晶さんのカロリーメイトのコピー。アスリートが下を向いている、汗が滴り落ちている横顔のアップ。そこに「精神力だけでは、テープは切れない。」というコピー。かっこいいなぁ、こういうのを書いてみたいなぁと思っていました。「○○だけでは、○○できない」というフォルムだけを参考にしました。フリーキックの名手のビデオを何回も見て、真似して練習して、初めて一発入った、ってカンジ。

働いているだけでは

CMはオペラ座のステージ。グラフィックは楽屋からステージへ向かう廊下を歩いている時の表情を撮りました。

プロの男女は、差別されない。

レッスン篇CM

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プロの男女は、差別されない。

1986年 とらばーゆ 
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「プロ」という言葉がキーワードでした。以前、「忙しさも、男女平等だよ」というコピーを書いていて、それを発展させたコピー。男女雇用機会均等法ができた頃の広告です。「差別」という言葉が問題だといわれることもありましたっけ。「職業としてのプロフェッショナル」を描くのにバレエダンサーを、と言い出したのは今村カントクでした。男女が同等の立場で仕事をしている現場。パリのオペラ座に出ているプロのバレリーナを撮影しよう、というのです。どんな職業でも働いている姿は美しい。どんな職業でも「仕事をする」ってタイヘンなんだ、という共感が欲しかった。そのために汗を流している裏の姿を撮影する。緊張感のある音楽を当てる。そこに、コピーを載せる。ただそれだけ。CMはオペラ座の丸いドームの一番上の場所。そこがこの練習場でした。あの場所へ行けたというだけでも、幸せな仕事でした。

差別されない

母の馬力を、なんとかしたい。

母の馬力CM

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母の馬力を、なんとかしたい。

ミセスの求人ページ、できました。とらばーゆ

1986年 とらばーゆ
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この仕事のプレゼンは、いつもの編集長だけでなく、リクルート本社の役員の方々にプレゼンすることになっていました。朝まで演出コンテを描いていた今村カントクはタクシーで新橋とらばーゆのビルに向かっていました。現地集合でロビーに集まったとき、「あ!」 なんと、今村カントクはタクシーの中に演出コンテを忘れてしまったのでした。役員をお待たせすることはできない…。会議室は一瞬まずい空気になりました。そこで今村カントクは覚悟を決めてホワイトボードの前に立ちました。「イタリアの田舎の田園風景を思い浮かべて下さい」といいながら、地平線を描き始めました。演出コンテをホワイトボードに描いて行くのです。1カットずつ丁寧にト書きをしゃべりながら描いて行く。演出コンテは頭の中に入っているから、完璧です。コピーした紙を配って見てもらうより、みんながホワイトボードに集中しているので、結果的にそのほうが何倍もわかりやすい演出コンテとなりました。

母の馬力2

「母の馬力を、なんとかしたい。」というコピーを考えていたとき。サン・アドへ通う大手町の地下鉄の階段で若いお母さんを見かけました。右腕に赤ちゃんを抱っこし、左手に紙袋をいくつも持って、階段を上って行く。母は強しだな、と思うと同時に、階段の下からその姿を見ながら「母の馬力をなんとかしたい。ミセスの求人ページ、できました。とらばーゆ」と頭の中でコピーをつぶやいてみました。よし、いける。このコピー、大丈夫だ、と思ったことを憶えています。(CMは「馬力を」なんとかしたい、とし、ポスターは連貼りだったので「馬力も」としました)

この頃の仕事は、不安と試行錯誤の連続でした。クリエーティブ・ディレクターとコピーライターというポジションを任されたことはプレッシャーでもありましたが、不安だったからこそ、いろんなことを記憶している。今思うと、悩んだことすべてが自分の血や肉になったのではないかと思います。