ピンクリボン授賞式

グランプリ_山中里紗さんグランプリ 山中里沙さんの作品

第9回ピンクリボンデザイン大賞の授賞式。今年で9年目かぁ。審査委員長眞木準さんの後を継いで、僭越ながらボクが審査委員長を務めさせていただいています。授賞式で今年のグランプリの人に盾を渡す役目です。渋谷ヒカリエのイベントホール、最前列に座って会場係の人から綿密な指示を受けます。ボクの隣りでグランプリ受賞者の大阪から来た19才の女子大学生が緊張しています。「大丈夫だよ、すぐそこじゃん。行って賞金もらって帰って来るだけだよ」とか「賞金どうするの? ヒカリエで全部使って帰ればいいじゃん」とか。受賞の挨拶どうしようと言うから「言葉に詰まってもいいんだよ、そのほうがホントにうれしそうに見えるから」と言ってみたり。バカ話をして緊張をほぐそうと彼女に話しかけました。効果があったかは定かではありませんが。

壇上でボクが彼女に盾と副賞を渡し、無事、ボクもとちらずに盾の文章を読み上げ、彼女の挨拶も拍手で終わり、彼女はホッとした表情でまた一番前の席に戻りました。しかし、審査委員長のボクはまだ壇上に残ってなくちゃいけません。「講評」とかしなくちゃいけないんです。ひととおり、講評し終わったとき、ふと最前列に座っているグランプリ受賞者の彼女と目が合いました。

「これは想像なんですが、この一見なんでもないような手描きのデザインも、作者は相当考え抜いたと思うんです。例えばこの手描きのピンク色で囲んだ線や勇気という文字。きっとこれもたくさん描いてみた中から選んだのではないでしょうか」

と口走ってしまい、さらに壇上から彼女に
「どうでした?」と話を振ってしまったのです。
すると彼女は

「100個以上描いた中から選びました」

と、うれしい答えを返してくれたのです。ボクは「ほらね」と言わんばかりに(ややフンぞり返りながら)解説を続けます。「たくさん描いた中から、一番勢いのあるもの、素直なもの、わざとらしくないもの、を選んでいくのです。パパパッとつくったように見えて、実はそこには綿密な計算がある。その目に見えない努力が伝えるパワーになっているんですね」と講評を締めくくりました。ほっ。

もし「一回しか描いていません」って言われたら、どうしてたんだろう・・・汗。

広告のない電車

広告ナシ電車2広告ナシ電車1

ある日の夜の大江戸線。中吊りなど一切の広告がない車両に乗った。ステンレスシルバー色の車内は、それはそれでキレイだった。広告屋としては「なんじゃこりゃ?」とすぐ気づいたけど、乗客たちはどうだったろう。ほとんどの人がケータイを見ていて、「ああ、そういわれると、ないね、広告が」と言いそうに見えた。

電車に乗ると車内のあっちこっちに広告が貼られている「当たり前」の状況を、一旦リセットしてみるのもいいんじゃないか。「掲出すれば効果がある(はずだ)」と勘違いしている頭の中をリセットして、「ケータイばかり覗き込んでいる人たちに、どう伝えるか」を考えなおしてもいいんじゃないか。

例えば、中吊りを一切止めて、車内放送でひとこと商品名をしゃべるとか、CM音楽を5秒流すとか。その商品のタレントの声で「駆け込み乗車はやめましょう。缶コーヒーの●●」というとか。「この最終電車は○○社の提供で走っております」とか。車両ジャックじゃなくて数枚しか貼らないとか。午前中は一切なくて、帰りの時間帯に合わせた広告を出すとか。朝が缶コーヒーで夜がそのメーカーのビールとか。ターミナル駅に停車しているときに、中吊りを張り替えていく係の人を見るが、車内がすべてデジタルサイネージになれば、いろんな可能性が考えられる。ちょっとでも空いている壁を見つけて、網棚で一部隠れているような場所にまでステッカーを貼らせて掲載料をとるよりも、広告効果を考えた方法がもっとあるはずだ。いかに広告掲載料を稼ぐかではなく、いかに効果的なメディアをつくるか。

とかなんとか、広告の全くない電車にたまたま乗って、常識を疑うこと、未来は過去の延長線上にないこと、そういうことを考えるいい機会になった。

キャノンデールをもう一度

Y’Sロード

「2000年頃のキャノンデールは塗装がきれいなんですよね」オーバーホールを担当してくれたY’S(ワイズ)ロード新宿店のMさんは言った。キャノンデールの代名詞でもあった『HANDMADE IN USA』が、2010年頃からアジアで生産するようになり、その表示ができなくなったらしい。塗装の方式も変ったのかもしれない。

友人から新車同然で譲り受け、いろいろ手をかけて室内保管していたけど、今の家に引越して来てからずっと外に置いていた。しかもほとんど乗らなくなり、タイヤは前後輪ぺしゃんこ、サドルも埃まみれ、あちこち錆が出始めていた。あまりにも可哀想で、ほったらかしていた自分が恥ずかしくなり、もう一度手入れをしようと決意したのだった。

Y2KモデルのキャノンデールF900。チェーン交換、ブレーキワイヤー交換、シフトワイヤー交換、グリップ交換、サイクルコンピュータ取り付け。タイヤとペダルは自分で交換していたので、セット料金じゃなく安い方でやってくれた。ありがとうございます。

「すごくきれいに乗ってらっしゃるので、これからも大事に乗ってあげてくださいね」

クルマやオートバイを、下取りなんかに出そうとすると急にエンジンの吹け上がりが良くなったように感じることがある。「まだ全然走れるぜ。捨てないでくれよだぜ」と言ってるような気がするくらい調子が良くなったように感じることがある。それと同じように、自転車も「機械」なんだから「感情」なんて無いはずなんだけど、大事に扱えばそれに応えてくれるし、雑に扱えば機嫌が悪くなるような気がする。

オーバーホール

オイルを吹いてもらった新しいチェーン。新品のブレーキワイヤー。新品のミシュランタイヤ。やや緊張しながら漕ぎ出した。なんか初心者に戻ったような変なカンジ。夕方の交通量の多い新宿青梅街道は、ちょっと緊張した。久々に2輪で走る。やっぱ2輪の風は気持ちいいわ。

17歳の記憶

icon_sr福岡県内の高校再編成で閉校になった母校の正門

■7月にNIKKEI AD Webの『コーヒー&コピー』という欄に掲載された文章です。主にクライアントが読むというのでそれを意識して書きました。
■夏の高校野球を見ていて(ボクはサッカー部でしたが)、高校2年の頃を思い出し、こっちのブログにも載せておこうと思いました。
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『永久不滅メディア』

福岡県立門司高等学校2年6組の教室。現代国語、伊東先生の授業でした。
伊東先生は、まじめで堅い先生が多いウチの高校の中で、
どちらかというと、明るく軽く気ままな気質の先生でとても人気がありました。
ちょくちょく授業が脱線するから、みんなもそれを楽しみにしていました。
その脱線した話のひとつを、いまだに憶えています。

「ええか。よく人に、『誰々さんに似てますね』って言うやろ?
あれなぁ、あんまりうかつに、言わんほうがいいんやぞ」
と伊東先生は言うのです。
人は無意識のうちに自分に似た人を判別していて、
自分の嫌な部分が似ていると感じると無意識に嫌う場合があるというのです。
「似ている人」イコール「好きな人」だとは限らないというわけですね。
当時高校2年生だったボクはただただ「へー」と思ったのでした。

それ以来、誰かに似た人がいたら
「ねえ、○○さんていうタレント知ってる?」→「うん知ってるよ」→
「その人好き?」→「まあね」→「ちょっと似てるね」と、
ちょっとメンドクサイのですが、そういう段取りを踏むようになりました。
「ねえ、○○さんていうタレント知ってる?」って聞いて、
「うん、アイツいやなヤツだよねー」と言ってきた場合は
「だよねー」と言えばいいんです。
まあ、他愛のない話なのですが、何を言いたいかというと、
その話を「いまだに憶えている」という事実。
40年ちかく前の話をまだ鮮明に憶えている。
この「人の記憶」というメディアはすげーな、と思うわけなんです。

いままでの多くの広告は使い捨てでした。
新聞広告は翌日になったら古新聞。トイレットペーパーに換わります。
一生懸命悩んで書いたコピーも翌日には捨てられてしまう。
今日の朝刊の広告で憶えている広告はありますか。
昨日の新聞広告ではどうですか。最近の広告で憶えているコピーはありますか。
「人の記憶」というメディアに残れば、
その広告は何十年も生き続けることができる。
逆にいうと、「数字上その広告を見た人」が多くても、
その人の記憶に残らなければ、ほぼ使い捨てと同じこと。
媒体は小さくてもいいから、記憶に残るコピーを書きたいとボクは強く思います。

斎藤さんとケヤキの木

飛良泉けやき

斎藤さんちの『飛良泉』の話、第3話。敷地内には、できあがった飛良泉を貯蔵しておくための蔵がいくつもある。そのどれもがひんやり低温に保たれている。今はコンピュータ制御で温度・湿度の管理ができるけど、室町時代はどうだったんだろう。その答えのひとつがこの欅(ケヤキ)の木。樹齢500年近いらしい。写真をもっと左から撮ればよかったんだけど、この欅の右に古い蔵がある。先代はその蔵に直射日光が当たらないようにと、この欅を植えたそうだ。

いくつもある蔵にはそれぞれ名前がつけられていた。その中で「ここは一番いいヤツを置く所なのよ」という蔵に『欅蔵』という名前がつけられていた。ケヤキといえば我が成蹊大学のシンボルツリーでもある。斎藤さんは、先代が植えてくれた欅の木と、26代目自身の母校で慣れ親しんだケヤキの名を取って『欅蔵』という名の大吟醸をつくった。

大吟醸

「荷物になって悪いけど、これ持って帰って」といただいたお土産の飛良泉。家に帰って開けてみると、なんとその飛良泉の大吟醸『欅蔵』だった。もったいなくて、しばらく飲めないなぁ。

見せたい場所がある

伏流水1スタスタ歩く斎藤さん

夕方の飛行機までの時間、飛良泉本舗26代目斎藤先輩が『見せたい場所がある』と連れて行ってくれた。鳥海山をクルマで上って、駐車場から10分ほど歩く。「最近クマが目撃されているので注意してください」という看板を横目に、散歩道のように整備された山道を登って行くと、もうすでに脇を流れる水路の水がめちゃめちゃきれい。そしてこの滝にたどり着く。

伏流水滝

『ここの水でウチの酒、作ってるのよ』と斎藤さん。この水は川などの流れが落下しているのではなく、鳥海山にしみ込んだ雨や雪解けが伏流水として、ここで地表に湧き出しているという。その日は秋田にしては蒸し暑い日だったせいか、水面からモヤが立ち上がっている。写真に撮ると曇っているみたいだけど、実際はとても幻想的であたりの空気もヒンヤリして、マイナスイオン出まくりの場所だった。この水があって、秋田の米があって、鳥海山の麓の仁賀保町で酒をつくる。なんと自然なことだろう。この土地で人が米をつくる。そしてこの山が水をつくる。山ってすごいな。

滝看板
『元滝伏流水』
『この水は川などの流れが落下しているのではなく、鳥海山にしみ込んだ雨や雪解けが伏流水として、ここで地表に湧き出しているものです。5月中旬から下旬にかけては、山つつじが見頃を迎え、いっそう鮮やかさを増し、見る人の目を楽しませます』という看板。
http://www.hiraizumi.co.jpmiz

機械製品をつくっているわけじゃないので、工場はどこでもいいわけじゃなく、この地じゃないとできないものをつくっているんだな。しかも500年も昔から。こんどから『飛良泉』を飲むときは、この滝の音と景色とヒンヤリしたあの感じを思い出しながらいただきます。

26代目『飛良泉』

旦那と飛良泉「タラシ、こっちこっち」と酒蔵を案内してくれる斎藤先輩

出張でせっかく秋田に行ったので、成蹊大学時代のテニス同好会の先輩、斎藤さんを訪ねることにした。秋田駅から列車で1時間ほど南下した仁賀保(にかほ)町。京都に銀閣寺が建立された1487年(室町時代)創業の造り酒屋『飛良泉本舗』。斎藤先輩はその26代目だ。ANAの機内誌でたまたま『飛良泉』が紹介されていて、読んで、あらためて驚いた。造り酒屋の何代目かだとは聞いていたけど、室町時代から500年も続いていたとは・・・。そんな御曹司、大社長なのにちっともエラそうな素振りすら見せない人だ。大学時代は一緒によく飲みに連れて行ってもらったし、同好会の中で流行らせるギャグを発明しながらブヒブヒ言っていた仲だった。

久しぶりにお会いしたその日も「いまこんなギャグ考えてるんだけどサ・・・」といきなり来た。斎藤さんを見ているとやっぱりボクの持論は正しいんだとつくづく思う。それは『エラそうな人に、エライ人はいない』というもの。ホントにエライ人は偉そうにする必要もない。だってエライんだから。エラくない人がエライんだぞと見せようとするから偉そうになる。だから、『エラそうな人に、エライ人はいない』んだ。実るほどコウベを垂れる稲穂かな、なんだな。

東京の店ではなかなか見かけない『飛良泉』だけど、メニューに見つけると斎藤さんが懐かしくてうれしくなって必ず『飛良泉』を注文する。出張中の夜、秋田の肴をいただきながらいろんな日本酒をいただいたけど、やっぱり最初に飲んだ『飛良泉』が一番好きだった。どの日本酒もうまいんだけど、斎藤先輩がつくってると思うと、ついエコヒイキしてしまうのかもしれないけど。

黒い塀堂々とした黒い塀。ここから100歩くらいで日本海

公式

にかほ駅秋田駅から2両編成の各駅停車で約1時間 特急もあったけど約1時間

新しいシューズ

ホイール

新しいシューズ

2000年モデルのキャノンデール F900。当時インターネットのバイク好きが集まる掲示板で知り合った人から、新車同然の時期に購入したものだ。ホイールを替え、タイアを替え、ブレーキを替え、ディレーラーも替え、クランクも替え、サドルも替え、フレーム以外はほとんどのパーツを交換して可愛がってきたバイク。MTBの草レースに出たこともあった。2シーターの助手席に前輪を外して無理矢理載せて、日曜日の大井埠頭に走りに行っていた時期もあった。ずっと室内保管をしていたけど、今の家に引越して来てからはずっと外に置いていた。雨ざらしになっていたのそのバイクは、タイヤは前後輪ペシャンコで、あちこち錆が出始めていて、お気に入りだったマルコ・パンターニのサドルも埃まみれで悲しそうに見えた。「昔はあんなに遊んでくれたのに・・・」と言っているようだった。

幕張F900草レースを走っていた頃

あるロードバイク好きの友達がfacebookにマルコ・パンターニの写真をアップしていた。パンターニはジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランスなどのローレースで活躍し、2004年に亡くなったイタリアの英雄だ。そのモデルのサドルを使っていたことを思い出したのだった。

パンターニ埃を落とした海賊

生き返らせようと思った。
もう一度手入れをして乗ってみよう。

まずタイヤの取り付け。久しぶりなのでできるかどうか心配だったが、できたっ! やっていくうちにだんだん思い出してきた。タイヤを替えただけで生き返ってきた!よし、これから錆びたペダルを替えよう。チェーンも新品にしたほうがいいだろう。ディスクブレーキのパッドも新品に交換しよう。バイクは、乗らなくてもいじっているだけでも楽しめる玩具です。ゼッタイ乗りますけどね。

元祖仲畑組

サンアド仲畑中村名刺

1981年8月3日(月)忘れもしないこの日。郵便番号100 千代田区丸の内1−1−1パレスビル9階 株式会社サン・アドに初めて出社した日です。初めてもらったコピーライターの名刺。仲畑さんに初めて会った日に「この名刺、アシスタント・コピーライターとかじゃなくていいんですかね?」と聞いたら、「そんな名刺、クライアントがもらったら、サン・アドは見習いを連れて来たのか!と思うだろ。クライアントに失礼や。だから、そんなアシスタントなんかない」と言われ、身が引き締まる思いがしたことを憶えています。今日からお前はサン・アドのコピーライターなんだから、わかっとんやろな、と言われた気がしました。コピーがヘタでも精一杯のことをやれ、サン・アドのコピーライターとしての自覚を持ってやれ、と言われた気がしたのです。この名刺を見るたびに、初心に戻れます。コピーライターになりたくてなりたくて、やっとこさコピーライターになれた時の名刺。ここが原点なんですね。あの8月から30何年経ったけど、初心に戻ります。

(仲畑貴志33才、中村禎23才。1981年8月のことでした)

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